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第二回紹介作品

タイトル

『街の灯』
1931年、監督・主演チャールズ・チャップリン 原題 City Lights 87分

紹介者

栗原好郎

作品の解説

「街の灯」が完成した時、「わたしはトーキーが嫌いです。世界最古の芸術、パントマイムをそこないました。視覚による造形的な美しさはスクリーンにとって最も大切です」と、チャップリンは言った。

トーキーは1927年の「ジャズ・シンガー」ですでに実用化していたにもかかわらず、彼は次の「モダン・タイムス」(’36)でも、ほぼセリフなしのサイレントを通した。猛然としゃべりだしたのは’40年の「独裁者」からであった。

チャップリンの映画は、喜劇であっても悲劇的な要素を持っているし、また悲劇であっても喜劇的な部分を必ず見出すことができる。彼は、「喜劇は距離を置いて人生を見ることであり、悲劇はクロース・アップされた人生である」と言っている。

盲目の花売り娘とチャーリーが出会う場面、さらに、最後に二人が再会し、複雑な笑いを浮かべるシーンは見る者の脳裏にさまざまなことを去来させる。再会した二人が交わす「あなたでしたの?」(You?)「もう見えるようになったんだね?」(You can see now?)「ええ、今は見えます」(Yes, I can see now.)(最後の娘のセリフは省略されている版もある)というセリフは、ここで映画が終わらなければ悲劇的な結末を観客が目のあたりにしてしまうことを予感させる。彼の映画はハッピー・エンドには終わらない。

「街の灯」はサイレント映画だが、自作の音楽を加えてのサウンド版となっていて、この作品以降、チャップリンは自らの作品の主題曲をことごとく作曲することになる。

チャップリンは浮浪者だがスタイルは紳士、つまり「放浪紳士」なのだが、少女に金持ちの紳士と誤解され、ついその気になって、少女の前で富豪の紳士を演じようとする。そのためにチャーリーの「放浪紳士」という二重性を帯びた性格が分裂してしまう。チャーリーの扮装は貧乏な人が上流の紳士に憧れる姿でもあり、紳士たちの実態を痛烈に皮肉ったものとも言える。その意味でも「街の灯」はチャーリーの性格を最もよく表している作品だ。

冒頭の場面。ある街の広場で、「平和と繁栄の像」の除幕式をやっている。1920年代の繁栄の裏側を歩いてきたチャーリーが、その像の上で寝ている。ひとりの浮浪者の存在が20年代の繁栄をくつがえしている。この除幕式の場面が撮影された半年後の1929年10月24日にはニューヨークのウォール街の株価が大暴落し、世界大恐慌が始まる。その意味でも「街の灯」は予言的な作品であるが、31年に公開された時、この冒頭場面は、大恐慌発生後の世界に強烈にアピールした。

同じ年、日本は満州事変を起こし中国侵略に乗り出し、37年には日中戦争が本格化する。ヨーロッパでは33年にヒトラーが政権をとり、36年から39年にはスペイン戦争、さらに39年には第二次世界大戦が勃発し、30年代には戦火が世界を覆う時代となっていく。

チャップリンにおいて笑いはロング・ショットで、涙はクロース・アップでやってくる。ラストでチャーリーが数年ぶりに花売りの娘と再会する場面のクロース・アップの何と効果的なことか。

しかし、チャーリーの、娘への愛情が報われたかに見えるこの場面で、画面を頻繁に横切る白い花は「正しく」編集されていない。花の位置が正しく接合されていない「ウソ」のカットバック編集がもたらすものは何か。

本当に二人は再会したのだろうか。

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