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第三回紹介作品

タイトル

『ノスタルジア』『惑星ソラリス』
1983年、監督アンドレイ・タルコフスキー 原題 Nostalghia 126分
1972年、監督アンドレイ・タルコフスキー 原題 Solaris 165分

紹介者

栗原好郎

作品の解説

『ノスタルジア』と『惑星ソラリス』〜廃墟の中から希望を〜

イタリアのトスカーナ地方に残る中世の廃墟の中にロシアの家が見える。故郷のロシアの地に戻れない詩人の記憶の中だけに残る家が、限りなくノスタルジーを呼び起こす。そしてやがてそこに雪が降りだす。

イタリアの中世の風景に浮かぶロシアの幻像。これは、タルコフスキーの「ノスタルジア」のラストシーンである。

東洋と西洋が出会うヴォルガ流域のイワノヴォ地区で生まれたタルコフスキーの世界は、アニムズム的な要素を強く持っている。それは東方世界に流れるギリシア正教の精神とも重なる。

火、水、さらに森や草木に至るまでその映像の喚起するものはまさに音楽であり、詩である。彼の映画には音楽が少ないと言われる。それは武満徹も指摘しているように、彼の映像自体が音楽的であることに由来する。その結果、水音などのかすかな音にも観る者の注意が向けられ、映画から聞こえてくる音に次第に耳を傾けるようになる。

「ノスタルジア」という作品の完成後に亡命宣言をするタルコフスキーにとって、以後、祖国ロシアは幻像の中にしか存在しなくなる。祖国ロシア、いやむしろ祖国の原型とでも呼べるものが彼の映像には絶えず出てくる。それはロシアという狭い枠を越えたもっと大きな原初的な神話的世界をわれわれに想像させる。その始原的な眼差しは常に遠くを見据えている。すべてが象徴的な空間として幽玄の美の中に溶解する。ちょっとした現実の空間も象徴性を帯び、自然と人間との交感に寄与する。

もう一本取り上げたいのが、最近、スティーヴン・ソダーバーグ監督の「ソラリス」というリメイク作品が出た「惑星ソラリス」である。

惑星ソラリスはプラズマの理性を持つ海に覆われ、その海は人間の潜在意識を実体化する不思議な力を持つ。

クリスという科学者が混乱に陥ったその宇宙ステーションへ乗り込む。しかしステーションは廃墟と化し、科学者のひとりは自殺し、残る二人も得体の知れない恐怖感に苛まれていた。

そうした中でクリスの前に、自殺したはずの妻ハリーが現れる。彼の意識下にあった自殺した妻が目の前に現れるに至り、クリスは動揺する。やがて彼は、幻影と知りつつもハリーを愛するようになる。しかし、妻は夫を苦しめていると知り自殺を図る。だが、もともと実体のない身体ゆえに死ぬこともできない。クリスが地球に戻ってみれば、自分の家もソラリスの海に浮かぶ島のようなものであった。

この作品は1972年に作られた。スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」が作られたのは、その4年前の1968年である。この二つの作品は全体に漂う浮遊感など類似的な要素をかなり挙げることができる。しかし、全く作品のコンセプトは別のような気がする。共にSF映画と言われているが、キューブリックの方が、最先端の科学技術を駆使した近未来映画であるのに対し、タルコフスキーの方は全体に宇宙のイメージが薄く、地球のどこかここではない場所で展開されているドラマとは言えないだろうか。

後者は科学技術に何ら重きを置いていないとすら言える。宇宙ステーションにあっても宇宙服を着ることはほとんどない。リアルな宇宙空間の描写はなく、ほとんどがイメージの連鎖である。

また、キューブリックが徹底してペシミスティックな運命論的立場を取るのに対して、タルコフスキーは廃墟の中にあっても希望を失う事無く、人類愛、さらには地球そのものへの深い愛情に貫かれた映像を好む。

キューブリックの描き方が極めてドキュメンタリー的であり、科学者的な冷徹な眼差しを感じるのに対し、タルコフスキーは機械を撮っても、それは人間的な印象を観る者に残す。

タルコフスキーはキューブリックの「2001年宇宙の旅」を批判して次のように言っている。「概して、SF映画に私はいらだちを感じます。例えば、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』は、実に、不自然に思われるのです。無菌状態の凍り付いた空間はまるで科学技術の陳列館のようです。しかし、科学技術の成果それ自体が、芸術家の関心の中心になっている作品に誰が興味を持つのでしょうか?芸術は人間の外部に、その道徳的問題の外部には存在できないのです。」

カナダの文明批評家マクルーハンは電子ネットワークは地球の神経のようになり、地球が一つの村のようになると予言した。それを彼は「グローバル・ヴィレッジ」と呼び、未来に対する明るい展望を提示した。トフラーもこうしたマクルーハンの楽観的な未来像をなぞった「第三の波」を著す。

彼らがメディアの明るい未来を唱道する一方で、映画などで描かれる未来はいつの頃からか破壊から始まるようになってしまう。

「ブレードランナー」、「風の谷のナウシカ」、「アキラ」などがその代表的な例だが、かつて未来を描いた作品は「メトロ・ポリス」や「モダン・タイムス」のように未来を否定的に描いていても、破壊から始まることはなかった。

宮崎駿と押井守の作風の違いもこうした破壊の中で希望を見出すか否かにある。宮崎がメカを描いてもそれは人間的なものとなり、押井が人間を描いてもメカになるという対比は、そのままタルコフスキーとキューブリックのコンセプトの違いにつながる。

「ノスタルジア」のラストで中世イタリアの廃墟にほの見えるロシアの家、さらに「惑星ソラリス」の終盤で父親の待つ地球に戻ったクリスの姿は、共に廃墟にあって未来に希望を託すタルコフスキーの精神の有り様を如実に表してはいないだろうか。

【参考文献】
1.月刊「イメージフォーラム」1987.3月増刊号No.80「タルコフスキー、好きッ!」 追悼・増補版、ダケレオ出版
2.アンドレイ・タルコフスキー「タルコフスキー日記」、キネマ旬報社、1991
3.馬場朝子編「タルコフスキー」、青土社、1997

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