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第7回紹介作品

タイトル

『シェーン』
1953年、監督 ジョージ・スティーヴンス 118分

紹介者

栗原好郎

作品の解説

「強く正しく西部劇」〜映画『シェーン』を中心に

 西部劇はもう死んだのか。ヴェトナム戦争に介入し、アメリカが正義の御旗を掲げえなくなったあたりから西部劇は作られなくなる。 「卑怯な真似はしない」という基本的なルールに貫かれたこの古典のジャンルでは、「丸腰の男を撃った」とか「背中から撃った」ことが汚名になる。 卑怯なことをして勝ってもそれは何の名誉にもならない。正々堂々と一対一で戦うことが美学であり、荒くれ男たちの誇りでもあった。 それは、日本の時代劇とも共通の価値観であり、今はもう廃れてしまったかに思える西部劇に共通して流れる基本理念であった。

 しかし、西部劇そのものは廃れても、その影響は今に残る。ジョン・フォードを崇拝していた黒澤明は、 自分の作品の中に西部劇的要素をちりばめた。やはりジョン・フォード好きのスペインのヴィクトル・エリセは「ミツバチのささやき」の中で西部劇的場面を再現する。 アメリカにとって、西部劇は一種の建国神話であり、帰るべき場所であった。
1903年制作のエドウィン・S・ポーターの「大列車強盗」以来、アメリカの監督達は自らを西部に重ね合わせて描いてきたが、 それはアメリカン・ニューシネマの傑作「明日に向かって撃て!」(1969)に至るまで変わらない。 善玉、悪玉の区別がはっきりしていて、勧善懲悪の結末は観客の溜飲を下げたものだった。ヒーローは群れることはなく、一人、敢然と敵地に乗り込んでいく。 切羽詰った状況の中でも、死を覚悟して悪党たちの待つ場所へ赴くヒーローの勇姿は凛々しく美しい。相手の悪役も最後は一人でヒーローに対峙する。
ジョージ・スティーヴンス監督の「シェーン」でシャイアンの殺し屋を好演したジャック・パランス然り。「ゴーストタウンの決闘」のリチャード・ウィドマーク然り。 もちろん、集団戦もあるがこうした一対一の決闘には及ばない。
また、「シェーン」もそうだが、西部劇には南北戦争(1961〜1965)が影を落としている。純粋に正義感に駆られ南軍のために戦った若者たちは、戦後、西部に新天地を求めた。 そして正義のために戦って破れ、心に傷を負った者が西部劇のヒーローになった。「シェーン」では、ジャック・パランスは明らかに勝者としての元北軍兵士であり、 南軍の元兵士だった農民を虫けらのように殺す。シェーン本人も南部くすれであることは映画から想像できるので、最後の二人の対決がその緊迫感を増す。 南北戦争は戦後も形を変えて続いたということだろうか。

 西部劇はインディアンを悪者にしてきた歴史を持っている。そのことがアメリカ社会における少数民族への偏見を助長したともいえる。 しかし、「シェーン」にはインディアンもそれを取り締まる保安官も出てこない。西部劇の古典と言われる作品であるにもかかわらず、「シェーン」は異色の西部劇だった。 アメリカという国の歴史を考える時、西部劇におけるインディアンのように、常に仮想敵の存在が欠かせない。現在もその例外ではない。 仮想敵の存在は団結を強め、内部にくすぶる批判をかわすことになるからだ。
インディアンに対する偏見は次第に減じてはいくが決してなくなることはなかった。その点、「シェーン」にはインディアンは登場しないし、白人は善玉、インディアンは 悪玉という白人優位の単純な図式からは免れている。それに西部劇ではタブーされる恋愛が描かれている作品としても「シェーン」は掟破りの作品と言える。

 最後に、「戻ってきて」と叫ぶジョーイ少年の姿を振り返ることもなく、肩を撃たれたシェーンは去っていく。「強く正しくあれ」という言葉を残して。去り行く者は美しい

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