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第8回紹介作品

タイトル

『裏窓』
1954年、監督 アルフレッド・ヒッチコック 113分

紹介者

栗原好郎

作品の解説

ヒッチコック論の余白に

 ヒッチコックは観客を楽しませる術を知っている。その意味では彼は芸術家ではなく職人かもしれない。 娯楽として観客の関心を集める映画作りを生涯にわたって続けたヒッチコックは、しかし単なる職人ではなかった。 サスペンスという分野に常人以上の執着を持ち続けたヒッチではあったが、はらはらどきどきの間に挟み込まれるユーモア、 さらに映画の物語の進行とはほとんど関係のないヒッチ自身の茶目っ気たっぷりの登場場面、 こうしたサスペンスとユーモアの複合体として彼の映画はある。

 それに映画的な省略の巧みさ。説明的描写を省略することでタイトな展開と切れ味のシャープさを見せ付ける。 例えば、「私は告白する」では、警察が脱走したと思っていたローガン神父が突然警察に出頭して来る。 ラストでも殺人を犯したケラーがローガンへ、ののしりの言葉を浴びせかけることで、 ローガンの無実と神父としての守秘義務が守られたことが明らかになる。無駄なものを省略するアート・オブ・ヒッチコック。

 50年代には「見知らぬ乗客」(1951年)など傑作群が並んでいるが、「裏窓」(1954年)ではヒッチの力の入れ方が変わる。 概してヒッチのサスペンス映画はその解決が偶然に左右される場合が多いが、特に状況証拠に基づいて犯人を罠にはめるパターンの 知恵比べは観客の力量を問われることになる。「裏窓」ではサスペンスに普通ある要素が欠落している。 これはヒッチに限らないが、サスペンスには死体か凶行場面かが必ず出てくるものだが、「裏窓」ではその双方を欠いている。 それに犯人の自供も間接的なものにすぎず、実際に殺人事件が起きたか確定する要素は極めて少ない。 ただ、無意識に観客の願望をかきたて、殺人事件の発生を期待させるものとはなっている。観客と映画の共同作業としての殺人事件。 それは双方の共同幻想の上に成り立つ。

 主人公のカメラマンのジェフが覗く望遠レンズを通して向かいの部屋の様子が観客に知らされる。 だから、ジェフがレンズを向けた風景が映画的真実を帯びたものとなり、切り取られた恣意的な風景が 観客の入手出来る唯一の証拠となる。 しかし、ジェフの目を通して見ていた観客に終盤、突如、恐怖が訪れる。ひたすら見られる存在であった ソーワルドがジェフを見返した瞬間、事態は急変し、われわれ観客もジェフと共に動揺し、迫り来るソーワルドになす術を知らない。 普通、映画では、主人公の目の先にあるものを観客も追体験して見ている。しかし、そのほとんどの場合、 それ以外の風景も観客の目に入るように作られている。ただ、「裏窓」に関して言えば、そのほとんどがジェフの見るレンズの先の風景なのだ。 それ以外のものはシャットアウトされた状況で、今までは観察の対象だったものから突然、 視線が返された驚きは筆舌に尽くしがたい。だから、映画の中の出来事ではなく、われわれ自身に現に起こっていることとして あからさまに周章狼狽してしまう。
「見る」-「見られる」という関係が逆転した時、事態は抜き差しならぬ展開を見せる。ジェフが見る存在から見られる存在へと 変容したように、観客も同時に見られる存在へと変貌する。映画はひたすら見るものだと思い込んでいる観客にとって、 見られる存在になった瞬間、映画を見ているという意識を奪われ、画面からの鋭い視線にさらされることになる。 ただ、ヒッチは決定的な証拠を観客に見せないで、観客のサスペンスへの欲望を刺激することで、殺人事件の有り様を想像させる。 そのことこそ、ヒッチが巧妙に仕掛けた罠であり、思い返してみると殺人事件など起こってはおらず、 自分達の妄想のなせる業かもしれないという可能性に観客が気付くことを、ヒッチはほくそ笑みながら見ているのかもしれない。

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