第10回紹介作品
タイトル
『東京物語』
1953年、監督 小津安二郎 136分
紹介者
栗原好郎
作品の解説
東京物語〜小津安二郎メモ
「癒るよ・・・・・・。癒る、癒る・・・・・・。癒るさァ・・・・・・」と笠智衆が病床の妻を看病しながら つぶやくセリフが「東京物語」の最後の方に出てくる。癒る見込みのない妻の死を笠が自分の身に受け入れていく過程を、この 「癒る」という言葉の繰り返しは表現している。言葉が本来持っている意味を逸脱し、少しずつずれていき、最後に全く 逆の意味を帯びてくる様を、観客は目の当たりにする。
若い時は気付かないが、老いていくと共に個別の世界を超えた大きな自然のサイクルに気付くようになる。 われわれはこの世に生れ落ちたその瞬間から死に向かって進んでいる、という厳然たる事実に気付く時、言葉が今までと 違った様相を帯びてくる。生まれてやがて死んでいくという大自然の営みが、老いというフィルターを通して見えてくる。 その時、言葉は個別の世界で持っていた意味を失い、マクロな世界にたゆたう。
小津はこの映画を知命に達する前に撮っている。古希を迎えた人間の終焉を暗示でもするかのような作品を、 あの「若さ」で撮っているのだ。何が小津にそうさせたのだろうか。まず、小津の戦争体験が大きな影を落としていることは 想像に難くない。 弟のように可愛がった山中貞雄の死、生死の境をさまよい、死と隣り合わせの時間を体験した後の小津の変容。 人生を肯定し、従容として受け入れること、迫り来る老い、そして死を、結局は受容することしか出来ない われわれ人間を見つめる小津の視線は、厳しくもあり、やさしくもある。 さらに居を北鎌倉に移し、志賀直哉を始めとする白樺派の人たちと交わることで、人生を肯定的に受け入れる 姿勢は一層強まっていった。 もちろん今から考えると小津はかなり短命だが、還暦を迎えての死というものは、 当時はそれほど珍しいものではなかったのではないだろうか。 老境という言葉は小津の晩年にふさわしくはないだろうが、今と比べると知命という年齢の持つ意味は違っていたと考えられる。 そうした自らの老いに先の死生観が加味されることで、戦後の小津調と呼ばれる映画の大半は作られている。
小津の映画はハッピーエンドで終わることはあまりない。 特に戦後の「晩春」以後の作品は、娘を嫁にやった後の孤独と迫りくる老いのわびしさを痛感させて余りあるものがある。 今はもういない娘の部屋を映し出すショットは寂寥感に溢れている。 しかし、観客は、不思議とおだやかな安らぎのようなものを感じて、残された者の孤独や老いの問題を単なる 悲劇としては捕えない。 誰もいなくなった家にぽつんと一人たたずむ笠智衆のこれからの侘しい人生を思い浮かべる代わりに、 そうした人生を受け入れざるを得ないわれわれ人間の宿命のようなものを感じて、 諦観という言葉がふさわしい、俗世を超えた態度に到達する。 「東京物語」のラストで、妻に先立たれた笠が一人たたずむ場面に、船の汽笛の音と呼応するかのように、 時計の時を刻む音が聞こえてくるが、あれは、かけがえのない人が死んでも自然の営みは止まることなく 永劫に続くことの暗示であり、それは人間の力を超えた大宇宙の連鎖に連なるものだろう。 観客はそのことにやがて気付き、諦観にも似た感慨を抱きながら、映画を見終えるのである。 われわれの意志に関わりなく営まれる自然の営為に身を任せる心地よさが、 従容とした安らぎを生むのかもしれない。 人生にあらがうことなく人生と折り合って生きることが、過剰な悲壮感を伴うことなく淡々と描かれる。 戦前の作品である「一人息子」においても、息子の出世を楽しみに田舎で苦労をし続けた母親が、 久しぶりに東京に息子を訪ねる。しかし、就職難の時代に大学を卒業した息子は夜学の教師をやっている。 息子の不甲斐なさに落胆を隠せない母親だが、近くの子供が怪我をして困っている時、 母親の東京見物のために工面してきた金をそっくりその子の治療費に貸してやった姿を見て、感動する。 だが、現実は変らない。 田舎に帰った母親は人生と折り合うことで自分を納得させ生きていくしかない。 隠れた、隠された部分が大きいほど、観客は想像力を刺激され、その余白を埋めようとする。 幸福な結末が生む楽天性とは異なる、人生の過酷さが生む共感の構造こそ、欧米の人を引き付けて止まなかった。 黒澤の映画がある意味では欧米の映画の延長上にあるのに対して、小津作品は、一見、日本的な風景を描きながら、 欧米のオリエンタリズムを逆手にとった普遍的な構造を持っている。 日常を克明に描くことで日常を超える世界観を表現した小津は、映画の国境を越えた。