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第106回紹介作品

タイトル

『ゆきゆきて、神軍』
1987年、 監督 原一男 122分

紹介者

栗原好郎

作品の解説

主役という言葉は当たらないだろうが、この映画のインタヴュアーであり、戦争責任を執拗に追及する奥崎謙三は、映画の進行を一手に引き受けている。 強引とも思える取材方法をとりながら、次々と驚くべき戦争の実態を暴いていく。 プライヴァシーも何もあったものではない。 戦争責任を解明するという大義のためには、たいていのことは許されると彼は思っている。 ある人は彼に会おうとしない。 またある人は、不意にやってきた彼に当惑しながらも真実を証言する。 このあたりは、クロード・ランズマン監督の『ショアー』における監督自身の、 元ナチス親衛隊員や収容所から奇跡的に生還したユダヤ人たちに対する取材の執拗さと似ていなくもない。 9時間を超える『ショアー』という作品の中で、何度沈黙がよぎったことか。 観る者はこの沈黙に耐えなければならない。 言いよどむ相手を前にしても監督は決して追及の手を緩めることはしない。 真実を明らかにするという至上命令に対しては、何事も許されるのであろうか。 絶対に映像を公表しないという約束のもとに取材しているのに、その姿を隠しカメラで撮影するといった具合である。 目的のためには手段を選ばない所も奥崎と極めてよく似ている。 ただ、『ショアー』の場合はあくまでインタヴューに終始しているのに対し、この作品では、奥崎は証言を拒む病人の胸ぐらをつかんだりもする。 暴力に訴えても真実を明るみに出すという強硬な姿勢は、ドキュメンタリーの邪道だという批判も確かにあるが、そうでもしなければ戦争犯罪など解明できないということもまた確かなのである。 ただ面白いのは、彼は戦争責任を追及している時にもパフォーマンスを忘れないということ。 彼は、常にドキュメンタリーとフィクションの間に立っているのである。

奥崎謙三は神戸でバッテリー屋をやっているが、自ら「神軍平等兵」と称し、全国遊説に出かける。 彼は昭和44年1月2日、新年参賀で天皇に向かって「ヤマザキ、天皇を撃て」と、 戦死した戦友の名を呼びながら、手製のゴム・パチンコで、玉4発を発射したことがある。 この事件は戦後初めて、天皇の戦争責任を告発した衝撃的な事件であった。 彼は太平洋戦争に召集され、一兵士としてニューギニアに派遣されたが、部隊は敗走の末に四散。飢えとマラリアで1000名余の兵隊のうち、生き残ったのは僅か30余名だった。 彼の属していたウェワク残留隊で、隊長による部下射殺事件があったことを知り、真相解明に乗り出す。 「なぜ、終戦後23日も経ってから処刑されなければならなかったのか」というのがこの映画の中心テーマである。 彼は現場にいた関係者を一人一人訪ねて行く。 その中には隊長、軍医、下士官、兵士たちがいる。 当時を語る関係者たちの苦渋に満ちた顔、もう忘れてしまったと言い張る者、ひたすら逃げを打つ者。 それでも彼の追求は立証を求めて執拗に続く。 こうして少しずつ事件の真相が明らかにされていく。 彼は確信犯だから、警察にも自ら通報するが、警察とのやりとりも可笑し味すら感じさせる「芸達者」でもあるのだ。 最後に彼は当時の責任者である元上官に面会を求め、代わりに応対に出たその息子を撃って有罪判決を受け刑務所に入る。 服役中に奥崎の妻シズミ死すの文字。

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