図書館トップ > CineTech home > 第12回紹介作品

第12回紹介作品

タイトル

『道』
1954年、監督 フェデリコ・フェリーニ 104分

紹介者

栗原好郎

作品の解説

「無辜の魂のジュリエッタ」

 無辜の魂を持った人間を映画の中に発見することは少ない。 何かに抵抗するということを決してしないし、打算、悪意、暴力、あるいは退廃などとは無縁の存在を映画の中に見出した時、 観客はその悲劇的なまでの純真さに打たれると共に、それを救うことの出来ない無力感に捕われる。 あるいは世知辛い世の中にまだこうした無辜の人間が存在していたということに少なからず驚き、慰めを見出す。 しかしフェリーニの「道」を見た後では、こうした無辜の人間という響きがいささか陳腐なものに見えてくる。 むしろ、ジェルソミーナはわれわれ人間とは別の地平に立っている。 われわれ人間の力を超えた神のような存在として造形されている。 だから、彼女を救おうにもこの世の力ではどうすることも出来ない。 それはおそらく、「神を信じない者に神の救いはあるか」というこの映画のテーマと密接に結びついていることは言を俟たない。 フェリーニ自身カトリックの寄宿舎で暮らしていたことがあり、神の問題は終生、彼について回った。

 ジェルソミーナを演じたジュリエッタ・マシーナはイタリアのチャップリンと呼ばれることが多いが、 フェリーニが創造した道化はチャップリンとは似て非なるものであった。 チャップリンの映画には、彼の理想主義が、現実主義の立場からは道化に映るというアイロニーが一貫して流れている。 観客は二重の意味で満足する。まず、彼の滑稽なしぐさや失敗を見て自分の賢明さを確認する。 さらに、結局は挫折するが正義と真理を信じる彼の理想主義に観客は自らの良心の慰めを見出す。 だが、こうした満足とは無縁の地平にジェルソミーナは立っている。 確かに一見、彼女はチャップリンに似てはいるが、チャップリンが子供のような大人であるとすれば、 彼女は大人の姿をした子供だ。 映画の冒頭、浜辺で子供たちと遊ぶジェルソミーナが出てくるが、彼女が心から世界の中に溶け込んでいる姿は以後、 エンドマークが出るまで観客は見ることは出来ない。 彼女は無知を絵に描いたような粗暴な男ザンパノに連れられ、道化として街道で芸を見せるが、 笑っているのは映画の中の街道の見物客だけであり、映画の観客を笑わすことは出来ない。 なぜなら、ジェルソミーナは、この世とは無縁の存在であり、観客の笑いを誘発する何物をも持っていないからだ。 チャップリンの失敗を観た時に優越感から笑いを催した観客も、ジェルソミーナを観た時には彼女の無辜の姿に神を意識してしまう。

 ジェルソミーナはいつもどこか他の所を見ているようで、どこからともなくザンパノを見守っていた。 そのことを知らずに病気の彼女を置き去りにしたザンパノが、彼女の死を知って海辺の砂浜で慟哭した時、 最後の救い主の不在に言い知れぬ孤独を感じたのかもしれない。 ジェルソミーナの透明な輝きが言いようのない悲しみと共に観客の心に甦る。

 補記:この映画はザンパノ=アンソニー・クイン、ジェルソミーナ=ジュリエッタ・マシーナで制作されたが、 当初は、プロデューサーのデ・ラウレンティスからザンパノ=バート・ランカスター、ジェルソミーナ=シルヴァーナ・マンガーノで提示されていた。 しかし、フェリーニの抵抗で前者の形に落ち着いた。 彼は、俳優になる前はプロの曲芸師だったランカスターや、デ・ラウレンテ・Bス夫人のグラマラスなマンガーノは使いたくなかったというのが実情らしい。 (ジョン・バクスター著「フェリーニ」による)

ページの先頭へ戻る