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第133回紹介作品

タイトル

小津は果たしてトーキーを撮ったのか?(小津映画の普遍性) その一

紹介者

栗原好郎

作品の解説

〜真の深さは軽快さの中に〜

漱石の『こころ』と似ている語りかけを、特に『晩春』(1949年)以後の小津映画は持っている。 つまり、あなただけに打ち明けるという形で回想や遺書を読むことになる『こころ』は、小津の場合の、 俳優を正面からとらえ、画面の真ん中で観客におだやかに語りかけるようにセリフをやり取りする親密さにどこか似ている。 『こころ』の場合は、誰が語っているかによって「私」が誰なのか異なる。 つまり小説全体の語りである当時学生だった「私」か、 あるいは先生の遺書の中では先生自身が「私」として語ることになり、読者は混乱してしまう。 というか「私」のイメージがオーヴァーラップしてしまう。 これも小津映画の登場人物の名前の類似性と、同じ役者を使う事で生まれるイメージの混乱と似ている。 内外における小津評価は案外、むしろこうした語りかけの様式に反応している部分が多いのではないだろうか。

それに小津は終生、サイレント映画を撮り続けたという風にも読める。 もちろん、『一人息子』(1936年)以降はトーキーへ移行するわけだが、 単純化された物語と様式化された役者の演技や画面構成は、言葉を媒介とせずとも十分に誰にでも理解される映画だったのではないか。 また小津は役者の演技より構図が第一であり、役者にあて書きをすることでも分かるように、役者の個性、人格そのものを映像に反映させた。 だから何をしゃべろうと画面からはその役者が持っている動かしがたい雰囲気が観客にも伝わってくる仕掛けになっている。 その意味でもサイレントへの小津の傾斜は疑いえない。 さらに、三分の二秒の間が生むリズム感と「無気力な」物語構造を活気づける軽快な音楽などが加われば、 言葉の壁を超えて、観客は自分のバイオリズムと波長が同調し、得も言われぬ心地よさを感じる事になる。

    

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