第14回紹介作品
タイトル
『紙屋悦子の青春』
2006年、監督 黒木和雄 111分
紹介者
栗原好郎
作品の解説
黒木和雄の遺作「紙屋悦子の青春」を観る
前作の「父と暮せば」に引き続き戯曲の映画化である。晩年の2作品が共に戯曲から発想されたのはなぜか。 ドラマは主に屋内で展開し、会話はユーモアに満ちている。 戦局の厳しさとは裏腹のゆったりとした会話が絶妙の間合いでなされる。 そして小津がやったような記念写真的構図でキャメラが俳優達を捕える。 どんな絶望的な状況下にあっても希望の光を失わない人たち。 戦時中とはいえ、戦争へと駆り立てることばかりが巷に溢れていたわけではない。 恋心を抱き、おはぎに舌鼓を打つといった「平和な」日常もあった。 反戦映画というにはあまりにユーモアに満ちている。 ユーモアに満ちているから、そうではない場面の緊迫感が生きる。 辛いことを語る時、ユーモアを交えて語ることで、辛さから免れられる。 それは、セットであろうとロケであろうと、向かい合う役者のセリフから紡ぎ出されるものであり、 死を前にした黒木和雄の、映画監督としての自分の限界を超える試みであったのかもしれない。 戦時中に友人を見捨てたという罪の意識にとらわれ続けた黒木の、 そのトラウマを乗り越えようとした結果として、こうした戯曲の表現形式の採用があったのではないだろうか。 戦争を語ること、語り伝えることの使命感のみが、監督の戦後の映像表現を決していた。 ただ、最後に戯曲という形の表現を採った裏には、映画が持つ限界を見極め、 その可能性を未来に広げたいという監督自身の切なる希望が根底にあったと思われてならない。 映像からセリフへ。戦争の悲惨さを語るのに、作られた映像だけでは十分に意を尽くせないと思った監督は、 芝居の持つセリフの重さへと傾斜していった。
両親を失ったばかりの紙屋悦子は、鹿児島の田舎町で兄夫婦と慎ましい生活を送っていた。 彼女の願いは家族の平安と、密かに想いを寄せる兄の後輩、海軍航空士官明石少尉の無事だけである。 ところがある日、兄が悦子の見合いの話を持ってくる。 相手は、悦子の想いを寄せる明石ではなく、彼の親友である永与少尉で、 明石もそれを承知しているとのこと。 傷心を押し隠し、永与との見合いに臨んだ悦子は、次第に永与の率直さに心を開いていく。 しかしやがて、明石は海軍特攻隊に志願し、最愛の人を親友に託そうとしたのだ、ということを悦子は知る。 出撃前夜、悦子に別れを告げ、桜が舞い散る中を振り返ることもなく去っていく明石。 数日後、明石の死を告げに悦子の下に現れた永与の手には、出撃する明石から託された悦子への手紙があった。
しかし、この明石の手紙の内容は公開されずに映画は終わる。 こうした展開を持つ映画では、この手紙は哀切きわまる内容のもので、 たいていの場合それを読む、今は亡き人の面影がスクリーンの中に甦る。 そうした展開をこの映画ではとらず、ただ、悦子が永与から自分の名前が書かれた手紙を受け取るだけである。 内容は観る者の想像のうちにある。 監督は、反戦という立場を生涯貫きながらも、センチメンタリズムに陥ることは決してなかった。 それぞれの観客が、自分で、明石の書いた遺書を想像して欲しい、 それは戦争を生きることを追体験することになるのだ、という監督の切なる願いがここにも表れている。 反戦ということを声高に唱えるより、抑えたトーンでユーモアを忘れない日常を描くことの方が、 どれほど戦争の意味をわれわれに自問させるだろうか。