第140回紹介作品
タイトル
『ハンナ・アーレント』
2012年、 監督 マルガレーテ・フォン・トロッタ 114分
紹介者
栗原好郎
作品の解説
『ローザ・ルクセンブルク』(1986年)で初めてコンビを組んだマルガレーテ・フォン・トロッタ監督と主演のバルバラ・スコヴァが放った大ヒット作が『ハンナ・アーレント』だ。 イスラエル諜報部(モサド)に拉致され、1962年に絞首刑になったナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴したアーレントの姿を追った作品。 このアーレントの記録は「ザ・ニューヨーカー」誌に5回に分けて連載され、大センセーションを巻き起こした。 アイヒマンは優秀な官吏であったが、思考不能の状態であった。 それがために、彼は20世紀最悪の犯罪者になったと。 いわゆる「悪の凡庸さ(陳腐さ)」とでも呼べるものが諸悪の根源にあると喝破したアーレントの姿が、説得力ある映像で表現されている。 もちろん、アーレントが苦境に立たされたのはユダヤ人自身へも批判の矢を放ったからだ。 対独協力者はユダヤ人の中にもいたわけだし、収容所の中にも存在した。 ただ、この作品中に「アイヒマン裁判」における記録映像が流れるが、その中でのアイヒマンの無表情さと淡々とした証言ぶりがむしろ一番印象的であったのはドキュメンタリーの持つ「強さ」なのか。
同じ「アイヒマン裁判」を扱った作品に1999年に制作された『スペシャリスト』がある。 この作品の副題は「自覚無き殺戮者」となっているが、「自覚無き殺戮者」と別称されるスペシャリストとは、ユダヤ人虐殺の責任を問われ、 本人否認のまま絞首刑になった元ナチス将校アドルフ・アイヒマンのことだ。 そのイスラエルでの長大な裁判記録を2時間余りに再構成したのがこの作品。
有能な官吏であり、上司の命令には素直に従う忠実な部下であるアイヒマン。 その風貌は冷酷無比などころか、物静かな家庭人のものであり、 その愚直なまでの弁明ぶりは滑稽でもあり、見る者の同情すら誘う。 しかし、全く凡庸な、ごく普通の人間が、ある日、凶悪な殺戮者に変貌してしまう。
組織というものは、アイヒマンのように飽くなき情熱と忠誠心で自分に与えられた仕事に専念する存在を生み出す。 彼らは組織の歯車として行動することで、個人の責任の問題を回避しようとする。 そこには無責任の体系と言われるどこかの国の社会問題とも相通じるものがある。 会社のため一生懸命に仕事をしたのに、公害を垂れ流したり、薬害を引き起こしたりする事例は後を絶たない。 コンピュータ化された機構の中では、現場から離れた所で、ほとんど事務的に決定がなされる。 さらに分業化はわれわれに全体的な仕事の意味を見失わせる。 そのことに気付かなければ、これからも無数の「アイヒマン」が生み出されていくだろう。 いつの間にか思考不能の状態になっている自分に気づく怖さがひしひしと伝わってくる。