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第152回紹介作品

タイトル

トリュフォーにおける教育 : 『野性の少年』とイタール博士 〜その2〜
『野性の少年』、1970年、監督 フランソワ・トリュフォー 85分

紹介者

栗原好郎

作品の解説

「人間は、文明化されなかったら、動物のうちで最も弱く最も知的でない存在の中に数えられることになる。 これは言い古された真理のはずだが、 厳密に証明されたことはまだ一度もない」と言って、野生児ヴィクトールヘの実験教育を始めた国立聾唖学校医師E.M.イタールのことばを自らに重ね合わせ、 『野性の少年』を撮り始めたトリュフォーはあるインタヴューに答えて、次のように言っている。

「この映画のシナリオはかなり前にできていたが、イタール博士の役を演じることができそうないい俳優が見つからなくて撮れずにいたのだった。 野性の少年を育てる役なので、なにはともあれ、子供好きの俳優でなければならず、演技のうまさよりも、できるだけ真実味のある俳優にやらせたかった。 ところが、俳優というのは、えてして、自分をできるだけよく見せるために、子供なんか押しのけてしまったりするものだ。 あの映画に関するかぎり、わたしは、俳優というものに最初から敵意をいだいていた。 とにかく、子供を何よりも、自分自身よりも、大事にしてもらわなければ、この役はできない。 やがて、わたしは、そういったことはすべて演出に属するものだということに思い至った。 少年をいたわったり教育したりする役は、映画監督と同じ仕事ではないか、と。 で、思い切って、わたし自身がこの役を演じようと決心したのである」

さらに、『未知との遭遇』に彼を出演させたスピルバーグの次のことばが、トリュフォーのこの作品の制作意図を一層はっきりと浮かび上がらせている。 「トリュフォーはぼくに完璧な俳優の定義を教えてくれた。 忍耐強く、十五分の仕事のために六時間待つことができ、監督に決して問題を与えない人。 彼は、それを大変誇りにしていたよ」

少年時代、母親に愛されたことがないと公言するトリュフォーが、自分を辛抱強く待ち続け、何か言えば必ず返事をしてくれる存在としてのアンドレ・バザンに出会うことで、 幼年時代に得られなかった父親の愛情を補填し、映画の世界へ足を踏み入れていく。 その間の経緯に思いをいたすことでトリュフォーは、文明の闇にさすらう野性児の物語へと誘われていった。

このヴィクトールの物語は次のようなシーンで終わっている。 イタール博士が机のわきに立って、自分の努力がどうやら失敗したらしいこと、少年を教育しようとする試みが、野性児の本能と憧れに負けてしまったことを日記に書いていると、 破れた服を着て泥まみれになったヴィクトールが窓の外に現れる。 イタールは少年を家の中に呼び入れて次のように言う。 「うれしいよ、帰ってきて。 分かるか?お前の家だ。 もうお前は動物ではない。 お前はすばらしい少年だ。 未来がある。 ………また勉強しよう」

少年は、当時第一級の精神医学者ピネルによって、「白痴であり、治癒も教育も不可能である」と診断された。 しかし、イタール博士は、「少年は、人間的に生きる経験や環境を持たなかったためにこうした状態にあるのだ」と考え、 野生児の人間化を目指した。 実際の、少年への教育は聾唖学校の監督婦ゲラン夫人の助けを借りて1801年初頭から開始されたが、すでに触れたように、映画のラストの安堵と明るさに反して、実際は、教育は失敗に終わる。 ただ、イタールが少年への教育的働きかけをやめた後も、聾唖学校の持ち家に住んでいたゲラン夫人のもとに少年は引き取られ、四十歳で亡くなるまで、夫人の手厚い看護を受けた。 映画の中にもゲラン夫人が登場するわけだが、夫人の少年への賢明で母のような愛情もさることながら、トリュフォー演じるイタールの、少年への父親的関わりの強さの方が印象に残っているのはなぜだろうか。 トリュフォーの父性への憧れがそうさせたのか。 教育への限りない信頼、いや、信仰にも近い感情を、トリュフォーは抱きつつ、教育者イタールに自らを重ね合わせていったのだった。 文明の力を確信しながら。

おわりに

本文中に野性児と野生児という風に、ヴィクトールを指すことばに使い分けが見られるが、それはフランス語のSauvageという形容詞の訳し方による。 文明と野性(又は文明と野蛮)という図式に当てはめればSauvageは「野性の」と訳されるわけだが、トリュフォーはすでに述べたように、文明を善ととらえているので、この立場をとる。 映画の字幕担当者も同じ立場をとっている。 だから、映画の内容やトリュフォーの考えに沿って話を進める場合は、野性児という訳語をとった。 このことばには否定的なニュアンスが常に伴う。 一方、イタール博士は、このSauvageということばを肯定的な意味合いで使っている。 つまり、同類に何も影響されていない人間の典型を指すことばとして、Sauvageという単語を用いている。 したがって、イタール博士自身の思考に関わる時は野生児という、否定的な要素をほとんど含まない表現をとった。

    

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