図書館トップ > CineTech home > 第153回紹介作品

第153回紹介作品

タイトル

キューブリックの18世紀趣味

紹介者

栗原好郎

作品の解説

20世紀最大の映画監督スタンリー・キューブリックが、1999年3月7日、ロンドン郊外の自宅で死去した。 前作と同じものを作らないことを信念として、常に新しいジャンルで、果敢に挑戦を繰り返してきた彼は、遺作『アイズ・ワイド・シャット』を冥途の土産に帰らぬ旅に出掛けてしまった。

映画界のモーツァルトとも言える彼の死について、スティーヴン・スビルバーグは次のようにコメントしている。 「彼は誰の真似もしなかったが、われわれは皆彼を模倣しようとした。 彼は映画以上のものを作り、映像を超える実体権を与えてくれた」。

彼の死後当時、いくつかの追悼文が新聞や雑誌に掲載され、筆者も出来る限り目を通したが、その中でも同年3月24日付けの読売新聞夕刊における日野啓三氏の文章が群を抜いていた。 日野氏はキューブリックの映画の非情さを、決して残酷さとか野蛮さではなく、意識の透徹さ、意識性そのもの、幾分あいまいな言い方だが極度の知性のあらわれのように見えるとし、さらにその作品世界を、感情の中間領域抜きの、意識的知性と無意識の衝動という両極端の密通と位置付ける。 日野氏の小説が日常生活を描いていても、どこか遥か遠くに視点が置かれていることも、氏のキューブリックへの傾倒からすれば当然のことかもしれない。 キューブリックの視線は遠く宇宙の果てにあって、そこから地球を透視している。

キューブリックにとって芸術作品は過去と未来との間の対話であり、そこから現在つまり人生は排除されている。 創造の原則は死であり、芸術はその中に何か破壊的で人を不安にさせるものを持っている。 『2001年宇宙の旅』や『時計じかけのオレンジ』などで未来のドキュメンタリーを撮ったキューブリックが、『バリー・リンドン』で過去のドキュメンタリーを撮る。 七年戦争(1756〜1763)を背景とする、サッカレーの小説を映画化したのが『バリー・リンドン』であるが、キューブリック作品においては以前から18世紀に対する偏愛が見られる。 塹壕戦の殺戮と強いコントラストを生む壮麗で豪奢な『突撃』の城の大広間や『ロリータ』で銃弾の雨を受けて死ぬキルティの前にあったゲインズバラ風の肖像画。 さらに『2001年宇宙の旅』のラストに登場するロココ風の室内や『時計じかけのオレンジ』において、アレックスたちがビリーボーイの一団と残忍な争いを行う時、その背景にあった廃墟のカジノと田園風景のフレスコ画。 どれもキューブリック作品における18世紀の特権的位置を確認できるものばかりである。 特に、『時計じかけのオレンジ』は明らかに全体的構造においてヴォルテールのカンディード風の哲学的コントを、また、 「ナッドサット語」つまり「頭』が「ガリヴァー」という意味になるドルーグの言語においてスウィフトを下敷きにしている。

キューブリック作品において暴力と死は常に18世紀的建築や芸術と重ね合わされているが、それは軽やかさと猥褻、気紛れと漠とした幸福という月並みな神話的イメージを持つ啓蒙時代の通念とはかけ離れたものである。 こうしたキューブリックの「光の世紀」への傾倒は、死ぬまで彼がナポレオンの生涯を映画化する夢を持ち続けたことにも現れている。 影絵芝居や光学を利用した玩具は18世紀に非常に大きなブームを迎えたが、それが錯覚の研究の始まりとなり、この研究を最も高度に推し進めたのが実は映画なのである。

18世紀は情熱と理性が出会う時代である。 この二つはキューブリック的世界の軸でもある。 理性は、啓蒙期の哲学や建築の中、そして科学技術の誕生や自動人形に対する興味の中に現れる。 また、理性は知の征服を目指す百科全書派の途方もない企てにも見られるが、キューブリックにもさまざまな分野を組織的に探求するための百科全書派に連なる方法論的な関心が見出される。 この論理と均衡に対する嗜好には感情の高揚が共存しているわけだが、弾道の専門家で砲弾を発明したラクロや時計職人で梃時計を発明したボーマルシェは、二人とも感情を巧みに描く名手であった。 ジャン・スタロビンスキーが指摘するように、「この理性的な18世紀の当初から、理性の理論家は、詩や美術の領域の中に情熱の絶対的な支配があることを認めていた」、 さらに「この時代が常に拠り所としていた規則は魂の快楽であって、それはシンメトリーを俯瞰する快楽、多様性とコントラストの中で絶えず新しいものになっていく快楽である」。

狂気と紙一重の知性で、認識の領域を合理的かつ偏執狂的に探求するキューブリックの絶えざる活動は、常に満たされることのない情熱がその糧となっている。 だが、『博士の異常な愛情』や『2001年宇宙の旅』が明らかにしているのは、純粋な合理性は最後には非合理性に行き着く可能性があるということである。 事実、ストレンジラヴ博士もコンピーターのHAL9000も狂気に陥り錯乱してしまう。 理性と情熱は情け容赦もない戦いを繰り返すわけだが、「狂気の中には方法ばかりか歴史的真実の断片もある」というフロイトの言葉を信頼すれば、こうした一見不毛とも思える戦いにも豊穣な実りがあるのかもしれない。 キューブリックが熱愛したナポレオンが、理性の女神が情熱と結婚して破滅する18世紀とフランス大革命の後継者であったことも、あながち偶然とは言えないだろう。

    

ページの先頭へ戻る