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第154回紹介作品

タイトル

「赤狩り」時代の映画作家たち 〜ワイラー・ロージー・カザンを中心に〜 その1

紹介者

栗原好郎

作品の解説

【はじめに】

アメリカの1950年代はマッカーシズムの旋風が吹き荒れた時代だった。 非米活動委員会を中心とする「赤狩り」は峻烈を極めた。 しかし、この委員会は最初から反共をスローガンに掲げていたわけではない。 その設立は1938年にさかのぼる。 当初の委員会設立の目的は、「憲法によって保障された政府形態の原則を攻撃する、国外ないし国内からする反逆的・非米的宣伝のアメリカ国内における普及」について、 情報を集めることとされていた。 当時はルーズヴェルト大統領の時代であり、もっぱらヨーロッパで猛威をふるい、アメリカ国内にもその追随者を出していたファシズムの脅威を防ぐことを眼目としていた。 しかし、委員の顔触れはむしろ、札付きのファシストばかりで、戦後は米ソの対立もあって反共へと矛先を変えていった。 始めは非常設であったこの委員会も、1945年には国会で僅差で常設化されることになる。 われわれが普通、ハリウッドの「赤狩り」について言う「非米活動委員会」は、この常設委員会のことである。 後に大統領になり、ウォーター・ゲート事件で失脚したリチャード・M・ニクソンもその中心的メンバーとして「活躍」した。

「ニュー・ディール」政策によっても経済は上向くことはなかったが、国防経済体制に移るやいなや、わずか2年で失業者数は激減する。 アメリカは平和ではなく、戦争を本質的に必要とした。 だから大戦後も新しい戦争を必要とした。 「冷戦」という名のソ連との不毛の戦いを。 戦後資本主義体制の中でリーダーにのし上がったアメリカは、冷戦により好況を維持すると共に、ソ連を始めとする共産主義勢力への恐怖感をあおりたてた。 ロックフェラーらの巨大財閥の系列に組み込まれていたアメリカの映画産業も、こうした「赤狩り」の荒波に襲われることになる。 映画もあらゆる意味で、金融資本と密接な同盟を結んでいる大企業であった。 戦争を挑発し、労働者や進歩的な人々を攻撃することに、映画界が戦前から重要な働きをしていたのもまた事実なのである。

非米活動委員会によるハリウッド映画界への弾圧は、「映画産業への共産主義の浸透」という名の下にその聴聞会を中心に展開された。 ハリウッドにおける第一回聴聞会は1947年に行われ、以後たくさんの映画関係者が証言を求められることになる。 本稿は「赤狩り」自体の分析は直接の目的としていないので、詳しい事情については次の文献を見ていただきたい。
1.山田和夫「ハリウッドの赤狩り」、「世界の映画作家17〜カザン/ロージーと赤狩り時代の作家たち」所収、キネマ旬報社、1972年
2.陸井三郎「ハリウッドとマッカーシズム」、筑摩書房、1990年

さて、こうした国家的規模の思想弾圧の中で映画人たちはどのような活動を続けたのだろうか。 おそらく、3つに分類できる。 まず、弾圧にもめげず、徹底抗戦あるいは非友好的態度で委員会に対する。 2つ目は、厳しい委員会の追求に屈し、転向する。 そして、最後の選択肢は赤狩りの吹き荒れるアメリカを去る。 例えばヨーロッパに活動の場を移し作品を撮り続ける。 もちろんこれ以外にも、赤狩りに抵抗しつつアメリカに残ったが仕事を奪われ困窮を来した者などあるが、 大きく分けて先の3つに分けられるであろう。 次に、そのおのおののグループから、つまり非友好的証人からウィリアム・ワイラー、友好的証人からエリア・カザン、さらにアメリカ脱出派からジョセフ・ロージーを選んで、 その作品を論じながら、彼らを取り巻く同時代の状況にも触れていくことにする。

    

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