第155回紹介作品
タイトル
「赤狩り」時代の映画作家たち 〜ワイラー・ロージー・カザンを中心に〜 その2
紹介者
栗原好郎
作品の解説
【ワイラーの挑戦】
ワイラーと言えば、大きな目、太い眉、スリムなボディのオードリー・ヘプバーンを一躍、世界の恋人にした『ローマの休日』(1953年)があまりにも有名だが、 後年、彼女を起用して『麗しのサブリナ』(54年)、『昼下りの情事』(57年)を撮ったビリー・ワイルダー監督の予言通り、オードリーは胸のふくらんだ女の魅力を過去のものにしてしまった。 しかし意外にもこのメルヘンタッチの作品には、ワイラーの、疑心暗鬼を深めるアメリカへの真摯なメッセージが込められていた。 グレゴリー・ペックが演じた新聞記者とオードリーが扮した王女のローマでの友情は、最後の記者会見の場面に至っても破られることはなかった。 それはアメリカを席巻する赤狩りへのささやかな抵抗だったかもしれない。 その間の事情は、吉村英夫「『ローマの休日』〜ワイラーとヘプバーン」に詳しい。 ただワイラーがアルザスのミュルーズに生まれ、スイスのローザンヌ、さらにパリへと転々とし、アメリカへやってきた移民の子であり、 同じ移民でもトルコ生まれのギリシャ人のエリア・カザンとはかなり異なった生き方をしたことは注目に値する。 カザンについては次章で述べることにして、ワイラーは、当時「ハリウッド・テン」と言われた非米活動委員会のブラックリスト十傑にはその名前はなかったが、終始、「赤狩り」には抵抗の姿勢をとり続けた。
『ローマの休日』では、ワイラーは、脚本をブラック・リストNo.1のドルトン・トランボに依頼している。 もちろん映画では、トランボは実名ではクレジットされることはなかった。 イアン・マクレラン・ハンターという仮名で登場する。 当局の監視はまだかなり厳しく、1956年の『黒い牡牛』がアカデミー賞に輝いた時も、ロバート・リッチという変名を用いたトランボだった。 魔女狩りは約十年続いたが、57年になって漸く下火になる。 さらに、『スパルタカス』、『栄光への脱出』(共に60年)、『いそしぎ』(65年)、『ハワイ』(66年)、『フィクサー』(68年)と次々と話題作の脚本を手がける。 そしていよいよ、38年に書き始められ、第二次大戦勃発直後に出版された『ジョニーは戦場へ行った』(70年)を脚本・監督することになる。 この企画は当時メキシコで映画制作を続けていたルイス・ブニュエルの演出を仰ぐという案もあったが、結局トランボ自身が監督することになる。 この作品は、第一次大戦のニュース・フィルムを、タイトル・バックにして始まる。 突然、砲弾の音で画面が真っ暗になり、一分近くも暗闇が続いた後で、白いマスクをつけた三人の軍医たちが暗闇に浮かび上がる。 手術の最中らしいが彼らの話の内容から、患者が相当の重傷であることが見る者にもわかる。 再び暗闇が襲い箱型のマスクに顔全体を覆われた患者がベッドに横たわっている。 そこから彼、患者であるジョニーの回想が始まる。 単なる反戦映画というより、根源的な人間存在を揺るがすような作品であり、赤狩りを挟んだ三十年以上ものトランボの執念が、この一作には込められている。
この時期のハリウッドの緊迫した状況を映画化したものに、アーウィン・ウィンクラーの「運命の瞬間(とき)」がある。 移民の子として自分のアイデンティティをアメリカで確立することの難しさは、次に述べるカザンやオーストリアからアメリカへ渡ったビリー・ワイルダーも同じだっただろう。 アメリカに来て、自分の育った文化と異なる文化に出会い、それに同化できる部分とできない部分とのずれを映像化することで、その違和感を昇華していく。 そうした作業を生涯続けていった先の三人の監督が、アメリカを代表する映像作家として現在も語り継がれているのは、ハリウッドの映画史を考える際にある視点を提供してくれる。 1981年にワイラーは亡くなるが、『ミニヴァー夫人』(1942年)、『我等の生涯の最良の年』(1946年)、『ベン・ハー』(1959年)と三回もアカデミー監督賞を受賞していることでもわかるように、 巨匠中の巨匠として晩年を迎えている。
ただワイラーが『ベン・ハー』を撮ったころから、アメリカ映画界は、テレビの普及などの影響で映画人口の落ち込みを経験する。映画界はそれを克服するためにいろいろな方策を案出する。 1.大型スクリーンや立体スクリーンの採用 2.大作主義 3.オール・スター・キャスト 4.旧作映画のテレビ放映禁止 5.スターをブラウン管に登場させない、などの対抗措置を当初はとる。 が、やがてテレビのめざましい普及に鑑み、妥協策を提出することになる。 つまり、 1.旧作映画のテレビへの売り渡し 2.スターのブラウン管への出演の解禁 3.ヨーロッパ映画界との提携によりアメリカ映画界の活性化をはかる、という「映画界とテレビの結婚現象」が起こる。
20世紀はアメリカの世紀と言っても過言ではないが、その輝かしい建国神話を高らかに歌い上げたのが西部劇だった。 『駅馬車』、『荒野の決闘』などにパイオニア精神のルーツを探るのは容易であろう。 しかし、朝鮮戦争やベトナム戦争により、アメリカの正義が地に落ちることで、西部劇も衰退していく。 ただ「赤狩り」の時代には暗い世相から逃避するように、「古き良きアメリカ」を彷彿とさせる西部劇が作られた。 ジョージ・スティーヴンスの『シェーン』(1953年)などはその代表的な例で、徹底したリアリズムに貫かれており、詩情あふれるウェスタンとなっている。