第158回紹介作品
タイトル
建国神話としての西部劇 〜1950年代の作品『シェーン』を中心に〜 その1
紹介者
栗原好郎
作品の解説
映画の歴史を語る時、西部劇は今はもうすたれたジャンルである。 勧善懲悪でマンネリズムに貫かれたドラマが、 価値観の多様化についていけなくなったことがその第一の原因だろうが、60年代のベトナム戦争や黒人公民権運動などの影響で、 アメリカが自分たちを正当化する拠り所を失くしてしまったことも大きい。
西部劇の魅力を語り尽くした「大いなる西部劇」(新書館)という快著が出ている。 戦前の作品もあるが、主に西部劇の黄金時代と言われる50年代の作品を中心に、西部劇マニアを自認する作家の逢坂剛氏と評論家の川本三郎氏がその蘊蓄を披露している。 50年代と言えばアメリカは、マッカーシズムの旋風が吹き荒れた時代。 つまり、「赤狩り」と言われる反共政策がとられ、映画の都ハリウッドへもその波は押し寄せていた。 非米活動委員会によるハリウッド映画界への弾圧は、「映画産業への共産主義の浸透」という名の下に聴聞会を中心として展開された。 ハリウッドにおける第一回聴聞会は1947年に行われ、以後たくさんの映画関係者が証言を求められることになる。 こうした国家規模の思想弾圧の中で西部劇はピークを迎えることになる。
映画は一世紀余りの歴史を辿っても、フィクションとして創られてきたことがわかる。 もちろん、リアリズムの運動や記録映画というジャンルの存在を忘れているわけではないが、それとてキャメラを向けて撮影をする限り現実そのものは撮影することはできない。 むしろ、「映画は夢である」といった言い方が映画にはふさわしい。 西部劇の場合もアメリカの建国神話に材を得ている部分があり、 現実からは遠く離れた古き良き時代を背景に展開する。 その意味ではやはり夢に近い。
西部劇にはいくつか特徴的な舞台装置が出てくる。 例えば汽車、駅、一軒家(廃屋)、学校、馬車、平原、時計のオルゴール、汽車から飛び降りる男など。 西部劇が衰退した後も、こうした西部劇の指標はさまざまな映画に登場する。 スペインのビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』(1973年)には、ジョン・フォード張りの西部劇的セットがあふれている。 エリセ自身がフォードの大ファンと聞けばそれもなるほどではあるが、内戦下のスペインと西部劇的空間という一見奇妙な取り合せが、西部劇の残像をはっきりと見る者に焼き付ける。 西部劇は決して死んではいなかった。 この点については、蓮實重彦と武満徹の対談「シネマの快楽」の中でも触れられている(pp.196〜198)。 西部開拓のドラマはアメリカにとって懐かしいふるさとであり、その意味で常に帰るところでもある。 1903年制作のエドウィン・S・ポーターの『大列車強盗』以来、アメリカの監督は自らを西部に重ね合わせて描いてきたが、そのことは個々の作品が作られた時代を逆に浮き上がらせる結果になっている。 それは、アメリカン・ニューシネマの傑作『明日に向って撃て!』(ジョージ・ロイ・ヒル監督、1969年)に至るまで変わらない。
50年代の西部劇を語る際に『シェーン』(ジョージ・スティーヴンス監督、1953年)は忘れてはならない作品であろう。 しかしこの作品には、西部劇にはお決まりの「正義の保安官」も「凶悪なアパッチ」も、さらに「辺境の騎兵隊」も「酒場の歌姫」も出てこない。 西部劇としては異色でありながら、西部劇ベストテンの上位に必ず顔を出すこの作品の魅力は何か。 ジョー・スターレットに代表される開拓農民の生活が史実に基づいて描かれているからだろうか、 それとも一対一の対決の潔さだろうか。 いずれにしても『シェーン』という作品の魅力をガンファイトのみに求めることは公平を欠く。 西部劇といえば、インディアンを射的の的のように何の罪の意識もなく殺すことが普通だった時代に、『シェーン』にはインディアンの存在の影すらない。 白人はシロでインディアンはクロという二項対立の図式からはこの作品は完全に免れている。 それに西部劇ではタブーとされている恋愛、つまりシェーンとジョーの妻とのほのかな恋愛感情も描かれていることも考え合わせると、『シェーン』が西部劇の掟破りの作品だということが見えてくる。
主題曲「遥かなる山の呼び声」がワイオミングの大平原にこだまし、「シェーン、カムバック」というジョーイ少年の声にも振り向きもせず、山の彼方を目指し黙って去っていくシェーン。 この作品は、シェーンを演じるアラン・ラッドのガンさばきもさることながら、単なる撃ち合いばかりの西部劇とは異なり、西部で生きる開拓農民たちの生活を史実に即して描いている。 またこの『シェーン』という作品は、荒くれ者のカウボーイの時代から耕作農民の時代への移行期に時代設定がなされている。 もともと西部劇は、南北戦争で南部の側で戦ったものたちが西部に流れていったところから始まるわけで、それからフロンティアの消滅、つまり西部開拓の終わりまでの30年から40年の間の物語なのである。 『シェーン』もその例外にあらず。南北戦争を背景に独立記念日を祝う村人たちの服装などにしても、徹底した時代考証がなされている。 綿密な風俗描写にはウソがない。 一方、そうした映像のリアリズムを貫きながら、そこで繰り広げられる人間ドラマには細心の注意が払われている。 例えば、シェーンとジョーイ少年の関係、はたまたシェーンとジーン・アーサー演じるジョーの妻マリアンとの騎士道精神をにおわせる関係などには。 両者が相手にとって不可欠な存在であることが常に意識されている。