第159回紹介作品
タイトル
建国神話としての西部劇 〜1950年代の作品『シェーン』を中心に〜 その2
紹介者
栗原好郎
作品の解説
ワイオミングの大平原に広がる開拓地では、土着の牧畜業者のライカー一味とジョー・スターレットに代表される開拓農民との間では、土地の所有をめぐって争いが絶えなかった。 そこにふらりと旅の流れ者がやってくる。 その男の名はシェーン。 彼はスターレット家に立ち寄り水を求めるが、ジョーとライカーたちが対立していることを知り、ここに残ることにする。 最初は、この得体の知れない男に不審を抱いていたジョーも次第に打ち解けていった。 一方、ジョーの息子であるジョーイは始めからシェーンに並々ならぬ関心を抱いていた。 それはこの映画の冒頭で、ジョーイ少年が銃を構えて獲物を撃つ真似をしていてシェーンをとらえるシーンからそうである。 このつぶらな瞳の少年の目線にキャメラを置いて、ドラマは展開していく。 シェーンの行くところ必ずジョーイあり。
ジョーたち開拓農民とライカー一味の争いは一触即発の状況を呈していた。 シェーンはその争いに巻き込まれ、ライカーたちに因縁をつけられる。 しかし、自分が手を出せば困ったことになると思い、シェーンはその場をやり過ごすが、そのことでジョーイ少年の正義感に傷がつくのを恐れたシェーンは、 つぎにライカーたちに酒場で会った時、彼らをジョーの協力でぶちのめしてしまう。 そうしなければ、もちろん自らのプライドも許さなかっただろうし、ジョーイの自分に対する尊敬の念にも傷をつけることになったにちがいない。
シェーンを演じるのはアラン・ラッド。 今ではアラン・ラッドと言えば『シェーン』と言われるように、この作品が代表作であるが、この作品以前はB級映画のスターにすぎなかった。 しかし、この作品が大成功を収めた後、不幸にもアルコールに溺れて、短い一生を終えている。 彼は西部劇のヒーローとしては背もそれほど高くない。 (それでも172pはあった) ジョン・ウェインやゲイリー・クーパーなどの大男のイメージとは程遠いこの小男が、映画の中では実に大きくのびやかに見えるから不思議である。 終盤での名悪役ジャック・パランス演じるシャイアンの殺し屋ウィルソンとの「0.6秒のガンファイト」は、何度見てもぞくぞくする場面である。 山の彼方に消えていくシェーンの姿は、一世一代の名演と言われるだけあって、ワイオミングの壮大な景観と実によくマッチしている。 シェーンとジョーにしてやられたライカーは、名うての殺し屋ジャック・ウィルソンを呼び寄せ、彼の力を借りて復讐を企てる。 しかし、彼らの陰謀を知ったシェーンは、ジョーを殴り倒して、ライカーたちの待つ酒場へと向かう。 そして絶妙のガンさばきで敵を倒したシェーンは、少年に「強く、正しい人間になれよ」と言い残して去っていく。
このように『シェーン』は西部劇の定番の勧善懲悪のドラマである。 そしてほとんどすべての西部劇と同様に、「善」は東部から西部にやってきた開拓農民であり、「悪」は古くから土地に住んでいる大牧場主という設定になっている。 当時のアメリカ政府は、1886年に、貧しい人々に西部で新しい家族を築くことを約束し、開拓農民の西部への進出を、西部の牧牛貴族によって阻止されるべきではないことを宣言した。 もちろん、この宣言以前にも1862年の「自営農地法」という法律があり、5年間土地を耕作し、規定された改良を行い、少額の登記料を支払えば、160エーカーの公有地を与えるというものである。 しかし実際は、こうした手続きをふまずに公有の牧草地に無断で入る者も多かった。 牧牛業者は自分たちの牧草地へ侵入する彼らを排除しようとした。 この新しい入植者と先住の牧場主との争いが、西部劇の主題となったのである。
さてライカー一味を一掃したシェーンは、ジョーに象徴される新しい時代の人間なのだろうか。 鍬を持ち、耕作に汗を流す農民になれるのだろうか。 否、彼自身が映画の中で言っているように、シェーンは銃を鍬に持ちかえることはできないのである。 流れ者の拳銃使いであるシェーンは、もとはおそらくウィルソンと同じ殺し屋だったのであり、その意味ではこれからの新しい時代に生きる人間ではなく、 むしろ前時代のヒーローである。 カウボーイ時代のような秩序がまだ成立していない時には、従順は弱さを意味し、誰にも従わないことがヒーローたる条件であった。 善悪を超越した強さが求められた。 ところが、これから来るであろう秩序を指向する開拓農民の時代では、アウトローは無用の長物であり、法を守る善良な人間が必要になってくるのである。 ラストでジョーイの再三の呼び掛けにも耳を貸さず、山に向かって去っていったシェーンは、夕闇の中、墓場を通るのである。 よく目を凝らして画面を見ていると、暗くぼんやりはしているものの、彼は確かに十字架の居並ぶ墓地を通り過ぎていくのである。 撃たれた方の肩を落としながら。
ところでこの墓場を通るシーンは何を意味しているのだろうか。 もちろん撃たれているシェーンの死を暗示しているのかもしれない。 しかし、それ以上に彼が属しているカウボーイの時代の終焉を意味している。 シェーンは、自らの死を予感し、自分の時代の終わりを自覚していたからこそ、生命を懸けてライカーたちとの闘いに挑んでいったのである。 墓場を通り過ぎたシェーンが馬で山を登っている時、「グッバイ、シェーン」というジョーイ少年の声がかすかに聞こえてくる。 あこがれのシェーンに別れを告げることで、少年は成長していく。 もう会うことはないシェーンの名を呼び、彼との別れを受け入れることで大人になっていく。 彼の存在を永遠のものとし、神話化しながら。