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第161回紹介作品

タイトル

ヒッチについて私が知っているニ、三の事柄 〜1950年代の作品を中心に〜 その1

紹介者

栗原好郎

作品の解説

〜「私の映画は人生の断片ではなく一切れのケーキだ」 ヒッチコック〜

20世紀は「映画の世紀」であった。 ある集計によると、20世紀の人気映画監督bPは、2位以下を大きく引き離してアルフレッド・ヒッチコックとなっている。 なぜ彼の映画が受け入れられるのか、その魔力の一端に触れるために、ヒッチ映画の黄金時代である50年代の作品を検討してみたい。

『パラダイン夫人の恋』(1947年)、『ロープ』(1948年)、『山羊座のもとに』(1949年)と、長回しのキャメラワークに試行錯誤を重ねてきたヒッチであったが、 『舞台恐怖症』(1950年)では再び編集作業に勤しむことになる。 ヒッチ50年代の幕開きである。

食事時に殺人の話をするのを最上の楽しみとしたヒッチコックにもお気に入りの殺しのテクニックがあった。 それは絞殺と刺殺。 刺殺の方は背中からナイフでブスッというのが多いが、もちろん、『白い恐怖』(1945年)でのように銃殺という場合もある。 『見知らぬ乗客』(1951年)では交換殺人というテーマを繰り入れ、「動機なき殺人」が展開される。

殺人事件には必ずそれを引き起こす動機がある、と考えるのが普通だが、列車で偶然隣り合わせた見知らぬ乗客が、それぞれ相手の恨む人間を殺したらどうなるだろうか。 二人の関係は殺しの前後には何もないとしたら、警察の捜査は混迷の度を深め、事件の迷宮入りもありうるだろう。 原作はパトリシア・ハイスミス。 あのルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960年)の原作者である。 だからでもないだろうが、主人公のガイ・ヘインズを演じるファーリー・グレンジャーとブルーノ・アントニーを演じるロバート・ウォーカーのホモセクシャルな関係は、 『太陽がいっぱい』でのアラン・ドロンとモーリス・ロネの関係を彷彿とさせる。

人気テニス選手のガイは、ある日、列車の中で見知らぬ乗客ブルーノから交換殺人を持ちかけられる。 ブルーノがガイの妻を殺す代わりに、ガイがブルーノの父親を殺すというものだった。 ガイは妻以外に愛人がいたし、一方、ブルーノも自分に冷たい父親を恨んでいたから、交換殺人は双方にメリットがある、というのがブルーノの言い分であった。 しかし、ガイは妻に嫌気がさしてはいても殺すまでの感情は湧いてこない。 そうこうしている内に、ブルーノはガイの承諾を得ずに勝手にガイの妻を殺してしまう。 そして、「今度は君の番だ」とばかりに、自分の父親を殺してくれとガイに迫るブルーノ。 ガイがそれを拒めば、僕は君のライターを持っているから君も共犯になるよ、とブルーノは脅迫の声を募らせる。

ライターをガイの妻を殺した現場に置きに行くブルーノと、全米テニス選手権大会の試合中でそれを阻止できないガイ。 試合の進行と殺人現場へ向かうブルーノの行動がカットバックされ、見る者は一層緊張感をあおられる。 緊張感が盛り上がったところでブルーノが、うっかり持っていたライターを下水溝に落としてしまう。 彼は手を伸ばしてやっと指にライターを挟んだと思うと、また深みに落としてしまう。 あせるブルーノはまた手を伸ばして懸命にライターを取ろうとする。 このカットバックの場面は手に汗を握るヒッチ名場面集のひとつである。 それぞれ別々に見れば何ということもない場面だが、二つをくっつけると見事なサスペンスを生み出す。 このライターはガイが愛人のアンからプレゼントされたもので、「AからGへ」というイニシャルが入っている。 もちろんAnnからGuyへとも読めるし、AnthonyからGuyへとも読めるわけでその曖昧さが謎を深める。

この作品では、ライター以外にも実にうまく小道具が使われている。 例えば眼鏡。ブルーノがガイの妻を絞め殺す場面では、草むらに落ちた妻の度の強い眼鏡のレンズに、 殺人の一部始終が映し出される。 二人の男が列車に乗り込み出会うまでを、それぞれの靴のアップで見せるファースト・シーンも秀逸である。

    

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