第178回紹介作品
タイトル
黒澤明の『羅生門』再考 ~橋本忍と黒澤明~ その二
紹介者
栗原好郎
作品の解説
ここで原作(あるいは小説)と映画の表現方法の大きな違いについて考えておきたい。 映画は視覚芸術である。 その日の天候はどうかとか、背景はどうするのかなど、あらかじめ具体的に決めておかなければならない。 原作では具体的なイメージは最小限に抑える事は可能だが、映画ではキャスティングをして役者を決めなければならない。 例えば多襄丸を三船敏郎、真砂を京マチ子に、さらに武弘を森雅之にすると言った風に。 ただ、そうした選択を黒澤がしたことで、観客は無意識のうちに、それぞれキャスティングされた俳優のイメージを登場人物に重ねてしまうことになる。 これは、小説をまず読んで、その後でそれを基にした映画を観た者よりも、まず映画を観て、その後で原作を読んだ者の方が、そのオーヴァーラップの度合いは当然大きくなるだろう。 その意味では原作が読者の想像力をかき立てるのに対し、映画はある意味では具体性を帯びている。 もっと言えば、映画は観客の想像力を奪ってしまう可能性すらあると言える。 これは私見だが、村上春樹の小説の持つ映画的要素は、実は読者の想像力を殺いでいる。 彼の小説の類まれな物語性は十分認めるとしても、その迫真の描写は逆に想像の翼をもいでしまっている。
黒澤はこの作品を、所属していた東宝を離れて、大映で撮っている。 既に評価の高かった宮川一夫のキャメラで、映画の舞台となる森の中を、光と影の強烈なコントラストで表現する事に成功している。 しかし当初は、決して今ほど評価は高くなく、分かりにくさを強調する批評も多く見られた。 ヴェネチアの映画祭でグランプリをとると、一転して評価が上がる。 外国で認められたら、特に欧米で認められたら、すぐなびいてしまう精神構造は日本では今も変わらない。 監督もすぐカンヌに行きたがる。 お墨付きをもらうために。 要するに自分に自信がないのだろう。 『羅生門』の場合、当時映画祭には、監督はおろか関係者は誰も行っておらず、同じ東洋系の見知らぬ人物が代わって受賞したという今では考えられないエピソードが残っている。 賞狙いが透けて見える監督も少なからずいる昨今からすれば、むしろこのエピソードは微笑ましい美談とすら思える。 『羅生門』の影響下で撮られた『去年マリエンバートで』(フランスのアラン・レネ作品)が、『羅生門』の受賞から10年後に同賞を受賞したのは特筆すべきことだろう。 最後に、『羅生門』以後、黒澤映画のスクリプターであった野上照代の「天気待ち」(文藝春秋、2001年)からの孫引きになるが、脚本家の橋本忍の師であり、伊丹十三の父である伊丹万作のことばを引いて筆をおこう。
「人間を慰めることこそは、映画の果し得る最も光栄ある役割りでなければならぬ」