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第18回紹介作品

タイトル

『幸福』
1965年、監督 アニエス・ヴァルダ 80分

紹介者

栗原好郎

作品の解説

幸福の外観

 アニエス・ヴァルダに「幸福」という恐ろしい映画がある。物語はタイトルとは裏腹に思える展開だが、 監督自身の言によれば、幸福そのものではなく幸福の外観を描きたかったらしい。

 幸福な4人家族が画面に向かって歩いてくるシーンから始まるこの作品は、 ルノワールの絵に描かれた風景よろしく、破綻のない幸福に満ちている。 実の家族をキャスティングしたことで幼い子供達も両親と無理なく自然に演技を交わしている。 そして何も起きないことで観客が油断をしかけたところで、夫に愛人が現れる。 しかし、妻と愛人の間に修羅場は訪れない。 夫は愛人が出来た後も、以前同様、妻を愛し続け、奇妙な均衡が保たれている。 ややあって、あろう事か、夫は愛人がいることを妻に打ち明ける。 夫の告白を聞いた妻が、意外にも夫を受け入れたと見えた瞬間、妻は突然溺死してしまう。 しかし、この後が怖い。 妻の死についてはほとんど誰も触れることなく、愛人が妻のいた場所に居座ってしまう。 遺された子供達も愛人になつき、観客が期待する破綻は訪れてこない。 ラストは冒頭とは逆に、画面の奥に新しい家族4人が歩み去っていくシーンで終わる。

 妻の死はどこへいったのか。彼女はなぜ、どのようにして死を迎えたのか。 夫は妻の死をどのように捕えたのか。謎が謎を呼び、観客は不確かな手掛かりを求めて画面に目を凝らす。 妻の死因として、病死、他殺、事故死、自殺と考えられようが、前の2つの可能性は薄い。 妻が病気らしいシーンは一度も描かれなかったし、愛人が夫と共謀して、あるいは愛人が単独で妻を殺したとも考えにくい。 もし妻が殺害されたのであれば、事件として画面の処理が少しはなされなければならない。 それでは事故死という線はどうだろう。可能性はある。 実際、妻の死骸を夫が抱き寄せた場面で、池で溺れそうになっている妻の映像が2度ほど フラッシュバックでスクリーンに映し出される。 なるほど妻の死後、最愛の妻を亡くしたはずの夫は、その空白を埋めるかのように愛人と一層親しくなっていく。 子供達も愛人に違和感なくなつき、そのまま幸福な新しい家族として森の奥に消えて映画は終わる。 ここで確かなことは、妻の死の原因が実際はどうであろうと、少なくとも夫は妻が事故で死んだと思っているということ。 もし、妻の死が自殺であると夫が思っていたら、妻の自殺の原因を考えるはずだし、 自分の告白が少なからず妻の死に影響を与えただろうことは夫の想像のうちにあるはずだ。 そうすれば、妻の死後、夫は愛人と仲むつまじく暮らす事も出来なくなるはずだ。 夫は愛人が出来た後も妻を愛し続けていたのだから。 ただ、客観的には妻の死は自殺と捕えるのが一番真相に近いだろう。 ただ、それは夫への恨みや失望からではなく、愛されているうちに、 夫の自分への愛がさめないうちに死にたいと思った妻のとっさの思い付きだったと想像される。 後に残る子供達への配慮が欠けていたのは良妻賢母だという夫の発言に似合わないが、 とっさの行動とはそういうものだろう。 パトリス・ルコントの「髪結いの亭主」にも幸福の絶頂で死を選ぶ妻が出てくる。

 もちろん、今述べてきたことは一つの解釈に過ぎない。 他の可能性を排除するだけの説得力を持っているとも言いがたい面を持っている。 ただ、妻の死をどう捕えるか、それに対する夫の態度をどう判断するかについては、 実は観客の実人生が反映する。 あるいはその人の性格も含めて、トータルな人生観がその見方に色濃く表れる。 自分ならばどうするという仮定を推し進めた先に映像の理解が結ばれる。 これは、われわれ人間の限界でもあり、宿命でもあろう。 しかし、そこに広がる見方の多様性は、映画を観ることの楽しみを増幅させこそすれ、減じるものでは決してない。 一元的な見方ではなく、多様な見方を許容する映画こそ真の意味で傑作の名に値する。

 幸福の外観を描きたかったヴァルダは、妻の死を除くあらゆる場面で幸福な風景を映し出した。 因果関係や前後の脈絡、さらに音楽による効果を抜きにしてこの映画を観ると、 そこには幸福な風景が絶えず流れている。 作品中、スナップが何枚も出てくるが、どれも楽しそうな風景である。 しかし、写真が幸福な瞬間を捕えることが出来るのに対し、映画は写真に時間の流れが加わる。 幸福はそもそも持続しない。 連続した映像で幸福を描くのは不可能事に近い。 もし幸福が持続するとしたら、それはいかなる形で可能なのか。 ヴァルダは幸福の外観を描く事でその課題に応えた。

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