第182回紹介作品
タイトル
『生きて帰ってきた男 : ある日本兵の戦争と戦後』
小熊英二著 岩波新書 2015年
紹介者
栗原好郎
作品の解説
歴史社会学者小熊英二が小林秀雄賞を受賞したことを知った。 小熊の父上への聞き書きをまとめた、新書としては破格の400頁近くある大部の本が対象だ。 第二次大戦末期、徴兵されて満州へ行き、シベリアに抑留。 命からがら帰国したのはよかったが、結核にかかり、療養所入り。 部分麻酔で肋骨7本を切って、右の肺をほとんどつぶした。 その後スポーツ用品店の経営に関わることに。 そうした父親の軌跡を、戦前から戦後にかけての生活史も含めて立体的かつ客観的に描き出す。
本の終わり方、未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切だと思ったか、という問いに父親はこう答える。 「希望だ。 それがあれば、人間は生きていける」 実に感動的な場面だが、その数行前のことばが妙に気にかかる。 「自分の人生は五O歳ぐらいまでだ、と結核療養所を出たあとしばらくは思っていた。 自分の人生は、途中まではどん底だった。 だが途中からは波に乗ることができ、人並みの暮らしができるようになった。 しかし、途中で出会った人々のなかには、そうできずに終わった人も多かったろう。 それにくらべれば、いまの俺はいい暮らしだ」という一節だが、小津が戦後の作品で老夫婦の台詞としてよく使う「あたしたちはいい方だよ」という会話を思い出す。 いろいろ辛いことがあってもいい方だという肯定的精神で人生を乗り切っていく。 その根底には、小熊の父上も小津も戦場に赴いて辛酸をなめた経験が色濃く流れているような気がする。 多くの戦友が亡くなった中で、生き残った幸運は戦死者に支えられているということを、小熊の父上も小津も痛感していただろう。 共に淡々とした語り口であることで一層その裏に隠されているものへと心が動くのは筆者だけだろうか。 実際に生きて経験した者にはヒロイズムやロマンティシズムは無縁のものかもしれない。