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第19回紹介作品

タイトル

福岡国際映画祭

紹介者

栗原好郎

作品の解説

 福岡では毎年9月になるとアジアマンスということでアジアへの関心が幾分高まる。 その一環としてのアジアフォーカス福岡国際映画祭も恒例の年中行事として今まである程度の活況を呈してきた。 ただ、民族問題や宗教上の対立が激しい国々、あるいは独立問題を抱えて国を割った戦いを余儀なくされてきた諸国では、 映像の力以上に、そのメッセージ性が強固に観客を捕えて放さない作品が多い。

 東ティモールとシンガポールの合作映画「ここに陽はのぼる〜東ティモール独立への道」(2006年)では、 東ティモール初代大統領のシャナナ・グスマンの姿をキャメラが追った。 400年に及ぶポルトガルの統治やそれに続くインドネシアの圧制へ、 復讐ではなく許しによって共和国を建設しようとするグスマンの高邁な志が観る者にひしひしと迫る佳作だ。 また、「砂塵を越えて」(2006年、イラク・フランス合作)では、 フセイン政権崩壊直後のイラクにおけるクルド人とアラブ人との確執を描きながら、 その共存への希望を未来に託した。 平和ボケした国民には想像を絶するような危機的状況に置かれている民がそこにはいる。 娯楽的な作品よりこうしたリアリズムが先行する世界はまだいくつもあるだろう。 明日をも知れぬ状況の中でフィクション性の高い作品を望むのは無理だろうし、 それだけの精神的余裕もないに違いない。 だが映画はフィクションであり、表現されたものより表現手段としての映像そのものが その映画的価値を決める事は言うまでもない。

 映画においてユダヤ人虐殺の惨状や原爆投下の地獄絵を描く場合、批評を容れない部分がある。 ホロコーストや人種差別意識から発する大量虐殺はおそらく人知を超えた野蛮さを持っている。 それは筆舌に尽くしがたい「犯罪」である。 その映像を観た者はおそらくただ言葉を失い、呆然とするしかない場合が多い。 アラン・レネの「夜と霧」を観ても、人類の悲惨に憤り、悲痛な叫びを上げるしかない。 しかしその映像に観客は共感出来ない。 むしろ、同じユダヤ人問題を扱った映画でも、ロベルト・ベニーニの「ライフ・イズ・ビューティフル」は それまでのこの種の映画と異なり、観客は虐殺されるユダヤ人をスクリーンに観ることはない。 ユダヤ人の死を暗示する場面こそあるが、収容所内で笑いが散見される。ユーモアがあるのだ。 ユーモアに気付いた観客は映像に共感する余地を見出し、画面に描かれない惨状を逆に想像する。 観客の想像力を解放すれば、映画の観方を限定することから免れられる。 ここにおいて初めて批評が成立する。 観客を映像の呪縛から解き放つものこそがメッセージ性が少なく、 映像の本質に迫るものとも考えられるのではないか。

 

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