第22回紹介作品
タイトル
『ラスト サムライ』
2003年、監督 エドワード・ズウィック 154分
紹介者
栗原好郎
作品の解説
福本清三という男
斬られ役45年の大部屋俳優として福本清三は東映を退職した。 2万回斬られた男は、2003年公開のアメリカ映画「ラストサムライ」に出演する。 寡黙なサムライ(Silent samurai)という役で。「一生懸命やっていれば、どこかで誰かが見ていてくれる、 という気持ちで40数年間やってきました」という福本さんだが、名前がスクリーンに出ることはほとんどない端役の端役で、 観客の誰が見てくれるというのか。主役に斬られて、海老反りで額から血を流すだけの大部屋俳優に目を向ける人は少ない。 主役を目立たせることに、場面を盛り上げることに、役者としての生命を賭けてきた福本さんの人生は、潔さに満ちている。
彼の語りが本になっている。「どこかで誰かが見ていてくれる」と「おちおち死んでられまへん」の2冊。 人を恨むでなし、うらやむでなし、淡々と自分の人生を語るその姿に読者は笑い、涙する。 人は言うだろう、「下積みの星」と。でも厳しい、時には危険が伴う演技を、笑いながら、自嘲気味に語る福本さんは、 自分の下積みの辛さをも笑いに変えてしまう。自らを笑いの対象にすることこそ真の強さであり、人生を生きる知恵かもしれない。 一見、諦めとも取れる彼の姿勢は、実は人生と折り合って生きる、人生を肯定するスタイルなのかもしれない。 あらがえない壁にぶつかる時、壁を乗り越えることができない時、失望落胆するのではなく、 その壁と折り合って生きることは、我々の人生を豊かにする。
福本さんの潔いまでの淡々とした語りの中にこそ、読者は隠された彼の苦労を読み取る。 映画自体がそうであるように、隠されたものの大きさに比例して、我々の想像力は働く。 自分以外の者を支えるという行為自体が福本さんに謙虚さを与え、読む者、見る者にも人生に対する謙虚さを伝える。 自分で自分を褒める輩が多い昨今、自分の成功にガッツポーズもせず、恥じらって、「そんなアホな」と応じる彼に、 そよ風のような爽やかさを感じるのは筆者だけだろうか。
顔すら判然としない画面の中に、「俺はここにいる」という小さな叫びを聞きえた時、 映画は輝きを増し、新たに甦る。脇役人生も脇役に徹すれば、主役。 セリフはもちろん、台本もない斬られ役の意地を自然体で語る福本さんに、われわれはいつの間にか熱いエールを送っている。