分館トップ > CineTech home > 第23回紹介作品

第23回紹介作品

タイトル

『秋日和』
1960年、監督:小津安二郎 128分

紹介者

栗原好郎

作品の解説

小津安二郎と周防正行

 小津は「秋刀魚の味」(1962年)を公開する2年前に「秋日和」を撮っている。 後者は、亡くなった学友の娘アヤ子(司葉子)の縁談のために奔走する初老の紳士たち(佐分利信、中村伸郎、北竜二)に、 かつて憧れたアヤ子の母親秋子(原節子)を交え、ユーモラスな展開を持つ作品だ。 「秋刀魚の味」で笠智衆がいたところに佐分利信がいるだけで、おなじみの料亭の女将は高橋とよだし、悪ふざけも似たようなもの。 途中から観ると、どちらの作品を観ているのか見分けがつかなくなる場面もある。 連続したホームドラマをイメージすればわかるように、登場人物の重なりと微妙なズレが生み出す効果は、 当然、監督自身によって周到に計算されたものだったに違いない。 ホームドラマの形式をとりながら、老いの孤独感をユーモアというオブラートで包んだ悲喜劇が展開する。

 この晩年の小津作品に影響を強く受けたのが周防正行だが、 1996年1月に公開された「Shall we ダンス?」以来、冬眠状態であるのは残念である。 小津が好む空ショットを多用し、オーヴァーラップをしない周防の演出は、独特のおかしみに満ちている。 「ファンシイダンス」(1989年)では修行僧、「シコふんじゃった。」(1992年)では学生相撲と来て、 最後に社交ダンス。あまり脚光を浴びない分野に目を向けたところは、「マルサの女」(伊丹十三作品)のメイキングを 撮った周防監督らしく、伊丹の影響が感じられるところだ。

 間の取り方が生み出すおかしさ。欧米ではこの間を取るのは難しいが、 スラップスティックとは一味違うそこはかとない笑いが全体に漂う。 小津の場合だと、ある人物が話し終わって10コマの間が空き、次の人物が話すまでに6コマの間が空く。 その間は常に計16コマ、つまり三分の二秒間が空く。 どんな時でも10コマ、6コマのつなぎになっていることで、小津調といわれる独特の会話のリズムが生まれる。 通常、一秒間に24コマのフィルムをつないで映画は作られる。 こうした一定のリズムが映画全体に流れる時、われわれのバイオリズムが無意識に共鳴し、快い至福の時間が創り出される。 静かな中に繰り返される日常のリズムは、洋の東西を越えて共感できるものへと変容していく。 また、テレビに対抗するために当時の映画界がワイド・スクリーンの作品を制作し始めても、 小津は1:1.33というスタンダード・サイズを頑なに守り続けた。 ワイドでは小津が表現したい美的構図が崩れ、曖昧な箇所がどうしても出てくるのだろう。 ショットの一番終わりのフレームと、次のショットの頭のフレームは芸術的でないとだめだ、 というのが小津の信念だったことを考えればそのことは十分納得がいく。

 小津の映画では、画面の中央にいることの多い人物が、あたかもアルバムの記念写真のようにポーズしている。 かけがえのない人生を慈しむように観客に語りかける俳優達を目にすることで、われわれも自らの人生をおだやかに生きようとする。 限りある生を諦観にも似て身のうちに受け入れて生きること、小津の映画では、人生を受容するまでのドラマが、繰り返し描かれる。 そして、希望と後悔とがない交ぜになり、複雑な余韻を残して映画は終わる。 それは、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。 世の中にある人と栖と、またかくのごとし」とした「方丈記」の世界観と通底するものを持っている。

 彼の映画に場所の限定性が弱いことは前にも書いたが、日本家屋を描いてもその全体像は容易に見えてこない。 日本を象徴する畳の縁を映さなかったのも、日本という空間に映像が限定されないようにしたのだろうし、 食事の場面が多いにもかかわらず、それについての言及が少なくただ食べて飲んでいる印象を受けるのは、 日本という枠を意図的に超えようとした監督自身の演出の普遍性を物語っている。 小津はリアルに描くために映画の作為性を隠そうとしない。 もともとリアルなものなどこの世に存在しないとでも言うかのように、映画の「まがいもの性」を意識的に表現する。 そうすることで逆に映像の真実が観客に看取されるという逆説。 ものそのものとは一体何なのか、存在するのか。

 最後に朝日新聞の死亡記事を見てみよう。

 小津安二郎氏
 映画監督、芸術院会員の小津安二郎氏は十二日午後零時四十三分、頸(けい)部悪性シュヨウのため 東京・文京区東京医科歯科大で死去、六十歳。自宅は鎌倉市山ノ内一四四五。告別式は十六日午後二時から三時まで東京・ 築地本願寺で松竹株式会社と日本映画監督協会の合同葬(委員長城戸四郎松竹社長)として行われる。

【引用】朝日新聞1963年

ページの先頭へ戻る