図書館トップ > CineTech home > 第27回紹介作品

第27回紹介作品

タイトル

『羅生門』
1950年、監督:黒澤明 88分

紹介者

栗原好郎

作品の解説

「羅生門」は藪の中

 黒澤明がヴェネチアでグランプリを取ったのは、東洋に対する西洋のエキゾチシズムのためだけではない。 むしろ、裁判劇という論理構成を必要とする題材を見出し、人間心理の深淵を垣間見るドラマに仕立てたことで、 西洋的な論理構造に強烈にアピールしたこともその大きな要因だろう。

 ここで当事者の3人の証言を見てみよう。まず、多襄丸の話。 木の下で寝ていたところに侍夫婦が通りかかり、その妻に興味を持った。 そこで太刀などを隠し持っているので安値で売りたいとうそを言い、夫の武弘だけを藪の中に連れ出し、縛り上げると、目の前でその妻を手篭めにした。 妻の真砂は二人の男に恥を見せたことで、どちらかが死んで欲しいと持ちかけたので、決闘して武弘を殺したというもの。 次に真砂の言い分。自分を手篭めにした多襄丸が去った後、縛られている夫に抱きついたが、夫は冷たい視線を返すだけだった。 自分は短刀を拾い、そんな目で見るなら殺してくれと懇願するが、失神してしまい、気がつくと短刀は夫の胸にあった。 つまり自分が殺したというもの。さらに、巫女の口を借りての武弘のことば。 真砂は男に抱かれうっとりとして、自分を殺すように男に頼んだが、その男は妻を跳ね除け、 「この女を殺すか、助けるか」と自分に訊いたが、答えを躊躇っているうちに妻は逃げた。 男は縄を切ってその場を去り、自分は自害して果てたというもの。

 この3人の証言は全く異なるように見えて、実は大きな共通点がある。つまり、自分が殺したというもの。 最後の自害した武弘も自分自身を殺したわけで、3人の当事者は全て自分が殺人犯だと証言しているのである。 殺害を自白し、自ら認めることで、自尊心を守ろうとしたのか、これは芥川の原作にだいたい忠実にならっている。 当代随一の西洋的知性芥川をして、可能ならしめた心理劇の映画化だったと言える。 人間は自分が見たい、あるいは信じたいものを見、かつ信じるものであるという事を、このエピソードは語っているわけだが、 この当事者を俯瞰的に見渡せる立場の杣売の証言を映画では最後に持ってきている。 そしてその杣売の話の嘘を羅生門の下人が暴き立てる。 それでは誰も信じられないのか、という観客の戸惑いをよそに、 最後に捨てられた赤ん坊をその杣売が抱きかかえて去るという黒澤特有のヒューマニズムで映画は終わっている。

 当事者を俯瞰し、客観的真実に迫りうる立場にある杣売の話に潜む嘘を暴く下人まで登場させることで、 自尊心という全ての人間が抱く虚栄心を極限まで表現した映画として「羅生門」は斬新だった。 この作品は、もともと橋本忍のシナリオ「雌雄」を下敷きにして黒澤も入り書き直したもの。 第三者としての杣売の話を当事者3人の後に持ってくるという設定にしたのも、映画制作側の判断だった。 「羅生門」というタイトルも、芥川の原作「藪の中」のエピソードに、 同じ芥川の「羅生門」の設定を加味したところからのネーミングだろう。 それにしても、客観的に真実を言い当てる者が不在であるという普遍の真理へと観客を導くこの映画は、 ヨーロッパの観客にも充分受け入れられる要素を始めから備えていた事になる。

 

ページの先頭へ戻る