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第29回紹介作品

タイトル

ミュージカル映画の光と影

紹介者

栗原好郎

作品の解説

ミュージカル映画の光と影

 舞台のミュージカルはいざ知らず、映画の方のミュージカルは西部劇と同じく 今はもうすたれたジャンルである。 おそらくミュージカル映画の最後だと思われる「コーラスライン」(1985年)のアメリカ国内での不評が、 それ以後のミュージカル制作への情熱をアメリカ人から殺いでしまったことは否めない事実だが、 ミュージカル映画がもともと金がかかる上に、舞台のヒット作を映画化する場合は、 その映画化権料が法外なものについたことも衰退の大きな要因だろう。 例えば、日本では大成功したが、アメリカ本国では大失敗した「コーラスライン」の場合、映画化権料は 何と550万ドルである。 当たるかどうかわからないのに、それだけのリスクを背負ってまでもミュージカルにこだわる プロデューサーも珍しいのではないだろうか。

 さて、ミュージカル映画は、トーキー映画の登場と共に始まる。 いわゆる「歌って、踊って」のイメージは、揺籃期と最後の衰退期では大きく異なる。 当初は、フレッド・アステアやジンジャー・ロジャースなどのコンビに代表されるタップダンスが花形だった。 それはまだ映画が、モノクロ、モノラルの時代だった。 しかし1939年に、人気も下降線を辿っていたアステアとロジャースが、コンビを解消してしまう。 そこに彗星のごとく現れたのがジュディ・ガーランドである。 彼女が主演した「オズの魔法使」(1939年)は、彼女の歌唱力もさることながら、 ディズニー映画張りの色彩感あふれる造形で見る者を圧倒した。 それも実写であれだけの画面を作り得た当時のスタッフの力量は、今でも十分に通用するだろう。 その後もガーランドの活躍は目覚ましいものがあり、アステア復帰作でもある「イースター・パレード」 (1948年)も大ヒットした。 さらに50年代に入ると、ブロードウェイのヒット・ミュージカルが次々に映画化されて、 ハリウッドは再び黄金時代を迎えることになる。 この時代に活躍したのがジーン・ケリー。 ヴィンセント・ミネリと組んで「巴里のアメリカ人」(1951年)、「ブリガドーン」(1954年)を作り、 スタンリー・ドーネンとは「踊る大紐育」(1949年)や「雨に唄えば」(1952年)を撮るといった具合に、 その傑出した才能を縦横に発揮した。 フレッド・アステアに続くタップの華麗なステップは、ケリーをハリウッド映画史に確実に刻印する。 ただ60年代におけるテレビの普及に伴い映画離れが起こった時、映画界は大型スクリーンへの移行で対抗した。 「ウエスト・サイド物語」(1961年)、「マイ・フェア・レディ」(1964年)や65年の 「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年)などはその例である。 特に、ミュージカル映画で人気ナンバー1と言われる「ウエスト・サイド物語」における、 画面を飛び出さんばかりの躍動感は、テレビへの映画界の強い対抗意識の現れだろう。

 もちろんヨーロッパでもミュージカル映画は撮られている。 「会議は踊る」(独、1931年)、「ナポリの饗宴」(伊、1954年)、「シェルブールの雨傘」(仏、1964年) などであるが、ミュージカル映画の大半はアメリカ製である。 ではなぜアメリカなのか。 それはアメリカが人種の坩堝であり、さまざまな宗教や文化的背景を持つ国民を納得させうるのは、 いわゆる分かりやすい大衆文化であり、映画はその代表だからである。

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