第47回紹介作品
タイトル
「宗方姉妹」
1950年、 監督 小津安二郎 112分
紹介者
栗原好郎
作品の解説
「椿」の表象西東〜小津安二郎の『宗方姉妹』
小津の『宗方姉妹』に、京都を旅した時の父娘の会話がある。 モノクロの画面に笠智衆演じる父親と田中絹代の長女節子が、苔寺に落ちていた椿をめぐって言葉を交わす。 父「苔寺バカによかったよ!光線の具合かとても綺麗だった・・・・・・」節子「椿の花が一つ苔の上に落ちてて・・・・・・」 父「ああ。お前も気がついたかい、ありゃァ良かった・・・・・・。昔からの日本のものにもなかなかいいものがあるよ」とあり、 このシーンの終わりには、父「お父さん、もう永くもなさそうだよ。― 苔寺もこれでおしまいだと思って、 今日は見て来たんだよ・・・・・・」節子「・・・・・・」父「― あの椿は良かった・・・・・・」と続くセリフを見れば分かるように、 父親は苔寺に落ちていた椿の花に自分の姿を二重写しにし、死にゆく自分を想起しながら深い感慨に浸っている。 椿と言えば『椿姫』と言ってもいいような、死とか潔さとはいささか異なった表象を持つ西洋の椿に対する感覚からは、 想像する事すら難しい苔寺の椿ではあるが、そのゆえにこそ一層日本への憧憬が湧き起こる。 小津の作品へのオマージュとしてフランスのミュリエル・バルベリが『優雅なハリネズミ』 (原書は2006年、翻訳は早川書房から2008年に刊行)という作品を書いているが、その中に前記の苔寺のシーンが出てくる。 小津の作品では実際に苔寺の椿の花が映されることはないが、小津の嗜好から言えば、椿の色は赤だろう。 いずれにしろ18世紀に西洋に紹介され、その後彼の地で品種改良を繰り返された椿と 『宗方姉妹』で言及される椿が似て非なるものである事は想像に難くない。 しかし、椿に込められた表象の違いは、文化の違いを超えて、時に驚きと賛嘆の念を喚起する。 「生命の動きそのもののなかに、永遠を見つめる」日本文化に対する深い敬意と、 そこに西洋人に生きる我々は辿り着けないのだろうかと自問するバルベリの日本への憧憬の思いは、ブルーノ・タウトによる桂離宮の「再発見」につながる。
映画評論
「映画は何を目指すのか」
栗原 好郎
日本を代表するアニメーション作家である宮崎駿の代表作は何と言っても『となりのトトロ』だろう。昭和30年代の初め頃の日本の農村を舞台にしたものだが、メッセージ性は意外に薄い。人間、年をとると説教臭くなり、理屈っぽくなりがちだが、後年の宮崎作品が、 その興行成績(東宝のドル箱とも言われる)にもかかわらず、メッセージ性の強いものになっていく過程を見ると、その弊を宮崎駿ですら免れていないと思われる。何かを目指して、何かを実現させるために映画作りをする事は、ある意味で危険な事である。是枝裕和の映画は、その点、比較的そのメッセージ性の弊を免れている。 『誰も知らない』でも子供を放置する母親や社会を決して糾弾しない。母親や社会に対して抗議の目を向けることなく、ただ黙々と自分達の置かれた状況を生きている子供達を映し出す。だから、観客は母親や社会に対して批判的になるより前に、子供達のたくましさにエールを送り、観客の側がむしろ励まされてしまうという逆転現象を呼び起こす。 メッセージ性が強いと、どうしても映画の見方が既定され、観客の想像力の働く余地がなくなってしまう。その極端な例がプロパガンダ映画、 例えば戦中のアメリカや日本の映画を観ればその例証になろう。ドイツのヒトラーは、映画のプロパガンダ性にいち早く目をつけ、宣伝相を置く事すらして、映画を戦略的に利用している。ゲッベルスなどは悪名高い。 ただそうしたプロパガンダ映画の中にあって、レニ・リーフェンシュタールの『民族の祭典』のように、映像作家の溢れる才能が勝って傑作として映画史に残る作品もいくつかあるが。 小説のように文字ではなく映像に訴える事で、メッセージが具体的に構造的に観客の中に入り込んでしまう映画の持つ魔力にはいつも慎重でありたいし、観客が距離を置いて鑑賞できるように映画作りをするのは、 映画人の任務でもあろう。戦時などの非常時には、プロパガンダ映画が作られる反面、それに対する反発も顕在化するのだが、平和時には、隠蔽された、あるいは自己検閲されたプロパガンダ映画も結構多いので注意を要する。 国家権力から強制されたり、依頼されたりしたプロパガンダ映画より、制作者自身が国家権力への追従の姿勢として自己検閲した映画の方が、さらに深く構造化されたプロパガンダ映画であることは歴史が証明している。 そしてそれは国家権力の介在を無化してしまう危険性を持っている。
現在の映画界の状況はむろん後者の場合が多いだろうが、自己検閲した映画はおろか、原作として人気漫画を選ぶ安易な映画作りや過去のヒットした映画のリメイクが横行する現況は映画の未来に暗い影を投げかけている。 これからの映画は何を描くのか、映画はどうなるのか。観客に迎合した制作態度がマンネリ化して、一層映画離れに拍車を掛けているのは事実だし、試写を繰り返し、その度に観客の要望を入れ修正して出来上がった作品は、 いったい誰の作品なのか分からない。映画館システムの崩壊が叫ばれて久しいが、一回性の映画との出会いは、適度の緊張感と集中力を観客に呼び起こし、 映画館にも熱気を生んでいた。今それを望むのは無理としても、水準の高い作品を作り続ければきっと観客が映画館に戻ってくるという希望を持って制作する姿勢が映画界にも求められている。戦時下のように軍部や国家権力の抑圧が顕在化している時の方が、 案外傑作が生まれるというのも皮肉な話だが、不可視の権力構造からの隠蔽された抑圧が蔓延している現在の方がもっと芸術的にも不毛な時代を生み出している。