第49回紹介作品
タイトル
『ビヨンド・サイレンス』
1996年、監督:カロリーヌ・リンク、113分
『名もなく貧しく美しく』
1961年、監督:松山善三、129分
紹介者
栗原好郎
作品の解説
〜『手話を映画に』〜
ドイツ映画『ビヨンド・サイレンス』(カロリーヌ・リンク作品、1996年)は、聾唖者の両親とその愛を一身に受けて育ったララという娘を中心に親と子の断絶、特に父親と娘の微妙な意識のずれを描いて秀逸であった。 クラリネットへの道を進むことをどうしても理解してもらえぬララは、とうとう家を飛び出すが、結局、父親の愛情に気付き、その深い絆に感謝しながら、人生を切り開くことになる。 ラストで、娘のクラリネットを聴きに会場にやって来た父親と、それに気付いた娘の深い愛情は、未来への希望を観客に与える。 娘が父親と会話する時は、手話という表現手段に頼らなければならないわけだが、通常なら早く推移する場面が、手話を翻訳するという作業が字幕に課せられている分、 ゆったりとした流れの場面になる。観客は、そこで言葉を反芻する時間が与えられ、肉声の掛け合いの相克から免れられる。
こうした経験は松山善三の『名もなく貧しく美しく』(1961年)でも共有できる。主演の高峰秀子と小林桂樹の手話だけが画面から流れる時、束の間の幸せに観客は浸れるし、度重なる不幸にも悲観的になることは無い。 社会への抗議の姿勢、理不尽な差別への告発などが、肉声で語られる時、どうしてもメッセージ性が強くなり、観客の想像力を殺ぐ事になりかねない。手話はオブラートに包んでいる分、われわれの想像力を喚起する。 むしろ、後者の方が強い共感を観る者に呼び起こすのは不思議だ。『名もなく貧しく美しく』は松山の初監督作品だが、彼の社会性のある作品群の中で、これほど喚起力に富んだ作品はない。 その一因は手話を映画に使ったことにあるのかもしれない
これは蛇足だが、前者の『ビヨンド・サイレンス』がもしフランス映画だったら、結末はハッピーエンドにはしないだろう。 娘の演奏を娘に気付かれずに聴きに来た父親は、そのまま会場を去り、その数年後に死ぬ。娘は父親の気持ちを知ることなく、和解は訪れない。 それがフランス流のリアリズムかもしれないが、少しは希望を、つまり和解の暗示を観たいのが観客ではないだろうか。