第50回紹介作品
タイトル
『大人の見る絵本・生れてはみたけれど』
1932年、監督:小津安二郎、91分
紹介者
栗原好郎
作品の解説
〜小津安二郎とは誰か?〜
小津安二郎とは一体何者か。知る人ぞ知る黒澤明より少し年上の世界的な映画監督である。 動の黒澤、静の小津、と言われるが、世間的な人気はどうも黒澤寄りのような気がする。 小津作品はキャメラがフィックスなので、マルチカメラ方式のダイナミックな黒澤映画と比べると画面に動きが少ない。 しかし案外、画面が動かないと心が動く事も多い。戦後の大船調と言われる作品群は、ホームドラマの形式で、同じ俳優を使い、 登場人物も同じ名前の人が多くて、連作物の印象が強い
先日、『彼岸花』(1958年)と『秋日和』(1960年)を続けて観直したが、両作品共、初老の紳士の面々は同じキャストで、 彼らの行きつけの料亭の女将も同じで、共に高橋とよが演じている。それで少し目を離すと、どちらの作品を観ているのか分からなくなってしまう。 どちらのストーリーも娘を嫁にやるという点で共通しているので、ますます混同してしまう。タイトルの彼岸花や秋日和も内容とはほとんど関係ないもので、 その意味でもそれぞれの映画がオーヴァーラップしてしまい、バルザックの『人間喜劇』のように相互の関連を読み込みながら、 解読する必要がある。小津はなぜこうした形式を採用したのか。笠智衆は、『若人の夢』以来ほとんどの作品に必ず顔を出す。 ある時は主役で、またある時はチョイ役で、小津の映画の良心のような朴訥だが誠実な人間として登場している。 小津は役者を選ぶ時、その役者の人柄をまず見る。どんなに役者が作っても、詰まるところ、人柄が出てしまう。笠は演技が下手であることが、 むしろ小津の要請に応えることになり、彼が持っている性質そのままを、つまり笠智衆自身を演じる事で、作り物である映画において「本物」の存在でありえた。
これから何回かにわたって具体的に小津作品について紹介していきたい。以前、『東京物語』については論じた事があるので、過去のシネテックの文章を参考にしていただきたい。 2011年度後期の「映像文化論C」でも小津安二郎の作品を取り扱う予定。乞うご期待!
今回は小津のサイレント時代の傑作『大人の見る絵本・生れてはみたけれど』について。
「父親は偉い」と思っていた兄弟が、上役のご機嫌をとるためにペコペコ頭を下げる父親を見てしまう。 サラリーマンの悲哀を描いた喜劇。東京郊外に引っ越してきたサラリーマンの息子の兄弟が、近所のガキ大将になる。 金持ちの坊ちゃんも従えているのに、彼らの父親がその金持ちの友人の父親に卑屈な態度をとっているのを知り、大人の世界に矛盾を感じ、父親に抗議する。 無声映画時代の世界に誇る日本映画の傑作。とかく深刻になりがちな主題を、笑いとペーソスを絶妙に織り交ぜた軽快な喜劇作品に仕上げている。 頑張れ、自分のようになるなと言う父親に矛盾を感じながら、屈折した社会の身分関係を子供が受け入れるところで映画は終わる。 こうした主題を扱うと、どうしても社会批判とかというイデオロギーが前面に出てしまう作品が多い中、実にユーモア溢れる後味の悪くない秀作だ。