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第63回紹介作品

タイトル

「小津と戦争」

紹介者

栗原好郎

作品の解説

一億総評論家という現象は映画界にも及んでいる。 世に映画評論家と自称、あるいは他称する者は数多い。 ただ最近は、 映画というものにさまざまな分野から光を当てる試みが出てきた。 そしてそれは映画プロパーの論究より起爆剤になりうる。 例えば、 與那覇潤『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』(NTT出版、2011年)はいたく刺激的な論考だ。 小津と戦争との関わりは、 表面的には軍人が出てこないとか、戦闘場面がないとかという理由で、薄いもの、あるいは戦時体制にも迎合することなく超然としていたとか、 反戦的な姿勢を貫いたとか、さまざまに言及されてきた経過がある。 與那覇氏は、そうした従来の見方に「中国化」という要素を投げ入れるが、 「中国化」という視点にこだわると小津から離れていくので、今は小津の大陸での従軍経験が戦後の小津映画にどういう影響を与えたか、というテーマに絞ろう。

小津は中国戦線で、いわゆるガス隊に所属していたと言われる。 防毒マスクなども不備な時代だったことを考えると、戦後の小津の早すぎた死との関連を疑いたくなる。 限界に近い行軍、生死をかけた戦闘の中にあって、小津が見た世界は、いわゆる戦争映画とは異質のホームドラマに結晶していく。 戦争を経験した小津が戦争映画を作ろうと思ったことは事実だが、がん細胞が小津の身体を蝕むまで、その実現はなかった。 リアルな描写を超えた従軍経験を持つ小津が、一度は夢想した戦争映画をなぜ断念したのか。 戦争を経験した者に戦争映画は撮れなかったのか。 小津は、自分がどう撮っても実戦を超える画像を作ることは出来ないし、軍人が出てきてドンパチやるのが戦争映画だと誤解している連中に、 何と北鎌倉を舞台にしたホームドラマをもって答えた。 例えば『晩春』では、初老の父親と戦時中の無理がたたって婚期を逸した娘との別れが描かれる。 ウソをついてまで娘を結婚させ、後に一人残された父親の寂しい老後が予感される場面で映画は終わる。 積極的な戦争批判はないが、おのおのが人生を受け入れるまでの過程が丁寧に描かれていて、観客は老後の不安よりむしろ、 人生を肯定することの意味を発見した喜びに浸る。

黒澤明が人生にあらがう映画を作り続けていた時に、小津は人生を肯定するドラマを作っている。 「自分たちはまだいい方だよ」と慰めにも似たセリフを吐く戦後の小津映画の主人公は多い。 戦後、「小津の奴帰ったら何か変ったものを作るだろうと思うかもしれないが、 現地で少しは苦労して来たから多少は変るだろうが、大体暗いものは止めることにした。 同じ暗さの中にも明るさを求め、悲壮の根本にも明るさを是非盛込みたいと思う。 現地では肯定の精神の下に立ったレアリズムのみで、実際あるものはあるがままに見て来た。 これからはこれを映画的に再検討する。」と小津は書いている。 (『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』P.104、日本図書センター、2010年)「悲壮の根本に明るさを盛り込んだ戦争物」を目指した小津が戦後、 大船調と呼ばれるホームドラマを撮ったのには、単純な戦争映画とは一線を画した諦観にも似たこうした信念があった。 こうした小津の姿勢は、音楽の使い方にも表れている。 「音楽についてはぼくはやかましいことはいわない。 画調をこわさない、 画面からはみださない奇麗な音ならいい。ただ場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑けいな曲、という選曲はイヤだ。 音楽で二重にどぎつくなる。 悲しい場面でも時に明るい曲が流れることで、却って悲劇感を増すことも考えられる。」(前掲書、P.19)斎藤高順が作り出す、 淡々としてリズミカルな、そして抒情的なメロディに乗ってドラマは展開する。 洗濯物が物干し台に鮮やかに映し出され、いつも、 ほとんど天候は晴れという小津映画のルールが日常性を再構築する。

     

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