第65回紹介作品
タイトル
『美しすぎて』〜中年男が見た束の間の夢?〜
1989年、監督 ベルトラン・ブリエ 91分
紹介者
栗原好郎
作品の解説
愛は「惜しみなく奪う」ものであり、またある意味では「惜しみなく与える」ものかもしれない。 どちらの場合も過剰になると苦痛を覚える。 しかし後においては、往々にして自制という物が働かないものだし、むしろ制御することができないからこそ、そこに限りない幻想の世界が広がり、 やがて幻滅に至ることもある。 こうしたプロセスを、この映画は目の辺りに見せてくれる。
凡庸なベルナールの美貌の妻のフロランスは、さしずめ惜しみなく奪う女であり、“それなりの”秘書コレットは惜しみなく与える女という役割を演じている。 フロランスはコレットとモーテルの一室で言い争うシーンで、自分は何人もの男をひざまずかせてきたことを誇り、夫ベルナールもその例外ではないとまくしたてる。 一方、コレットはベルナールに無償の愛を注ぎ、安らぎを与えていくことを極めて冷静にフロランスに伝える。 こうした二人の性格付けは、 補い合えば、中和され心地よい幸福がそこに醸し出される要素を持っている。
しかし、往々にして愛は過剰に注がれる。 それを受け止めるには、ベルナールはあまりにも脆い。 (もちろんベルナールを演じるドパルデューの画面にあふれんばかりの巨体は別だが)二人の女性の間を揺れ動くベルナールには、 奪う女フロランスも与える女コレットも次第に苦しく耐え難いものとなる。 フロランスが象徴する外面的な美と、コレットが表す内面的な美とは共に、 凡庸なベルナールにはあまりにも美しすぎるわけだ。 だから結果として彼は、二人の女に実に簡単にふられてしまう。 こうした意味でも、 フランス語の原題『Trop belle pour toi』が示す、あなたに(ベルナール)にとって美しすぎるのはフロランスであり、またコレットでもあるのだ。
この映画のもう一つの見所は、映像が時をクロスオーバーしているところだろう。 つまり過去(それも遠い過去と近い過去)、 現在、未来(それも遠い未来と近い未来)の流れが、実に自由に組み合わされている。 そんな事実の描写に加えて、一方では、 心象スケッチともいえる内面の描写(例えば欲望)とがない交ぜになって映し出される。 現在の事を映しているかと思うと、突然、 過去の場面が出てきたりして、解説的な注釈が入る。 また現実の描写だけではなく内面の欲望も映像化され、 意識と無意識の二元中継を見ているような錯覚を起こしてしまう。 それに、シューベルトが随所に流れ、すべてを美的幻想の世界に誘う。 ラストシーンで、二人の女にふられたベルナールが画面から消えようとした瞬間、突然戻ってきて、「シューベルトはやめてくれ」、 「もうウンザリだ」と画面に向かって叫ぶ。
こうした結末にもかかわらず、何事もなかったかのように元の日常に戻ってしまうところが怖い。 これは中年男が見た束の間の夢だったのか…