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第86回紹介作品

タイトル

「映画の未来」

紹介者

栗原好郎

作品の解説

これからの映画はどうなるのか。 3D映画という3次元空間の只中にいるような錯覚を覚える近年の映画。 もともと映画は人間の目の錯覚を利用したものだったはず。 しかし、スクリーンに映し出された別の空間という意味合いが、3D導入で薄れてきた。 映画館自体が映像の中にある。 妙な言い方だが、スクリーンと観客を隔てていた壁がなくなっていくのか。 映画的に3Dが不必要な場合にも、3D映像を使っている作品がある。

CGの導入は役者の要らない映画を産み出すのか。 コンピューターで作り出された映像が質感、量感を増していくにつれ、スタジオ・システムは遠い昔のものになっていくのか。 人が要らない映画とは、果たして映画なのか。

映画は映画館で観るもの、というリュミエール兄弟以来の映画館システムが壊れていく。 テレビでの映画上映に始まり、ビデオ、LD、 DVDなどの導入が、映画をみんなで観るものから、個人で観るものへと変化させた。 不特定多数の人たちと観る映画、万障繰り合わせて開始時間に映画館に駆けつける映画は、 もう時代遅れなのか。 映画館に限定されない場所で、DVDなどを使った映画を観るという行為は、果たして、映画館で観た映画と同じものなのか。 そもそも映画とは何なのか。 集団から個人へ。

映画は複製芸術だが、基本的にはそう何度も観直すものではなかった。 演劇なら、同じ演出、同じ役者でも、毎回違った舞台になるが、編集が可能な映画は、常に同じものを観ることを可能にする。 もちろん、観る時の観客の状態で、映画は違った様相を見せることはある。 ただ、ビデオ登場以前は、巻き戻して観たりすることはできず、観落とし、観間違いがあった。 繰り返し、それも部分的に観直しができる昨今の映画事情では、映画を分析的に観るという姿勢を生んできている。 一回性の原則の崩壊。

映画はリアルさを追求してきたが、果たして映画はリアルでありうるのか。 もともと「まがいもの」であったはずの映画が、リアルさを追求しても、とうてい現実には敵うまい。 世界貿易センターに激突したハイジャック機の映像を見た後で、どんな映像が可能なのか。

まがいものであったはずの映画が、リアルさを追求する。 ウソの映像が現実とまがうようなリアリティを持ちうることはありうるが、それはリアルさの追求とは別物。 『ライフイズ ビューティフル』のようなファンタジーが実写よりも、むしろユダヤ人問題を浮き上がらせることもある。

CG等の映像技術が進化すると、昔、制作スタッフが血のにじむような苦労の末に考え出したアイディアなど簡単に実現してしまう、という声が聞かれる。 例えば、黒澤の『羅生門』で、志村喬扮する杣売が森の中を走る場面を思い出していただきたい。 切り株だらけの森の中を全速力で走る人物をどうして撮影するか悩んだ末に、 思いついたのが、比較的樹も切り株もない場所にカメラを固定し、そのカメラを中心にし円を描くように志村に走ってもらうということ。 それを固定したカメラが回転しながら追う。 そうすれば観客は、志村が森の中を駆け抜けているように錯覚する。 背景も、志村が走っているので、ぼやけていても何の違和感もない。 この場面を見せながら、人間の英知の素晴らしさ、その極み、今の映画とは雲泥の差だ、とか解説しても、すぐ反論が返ってくる。 そんなものはCGで訳もなく実現できる。 苦労して作り上げた場面と、CGを使って容易に作り出せる場面と、どう違うのですか、映画的には同じではないですか、と切り返される。 そんなの決まってるじゃないか、努力の結晶である黒澤映画が一味も二味も違うと思いながらも、相手を納得させる論点を並べることができない自分に苛立つことも多い。 技術が今以上に向上することで二つの映像の差がさらに縮まる時、どう反論したらいいのか。

絵画の歴史を辿っていくと、写真が登場した時点で技法にも大きな変化が現れている。 正確に人物等を描写するという一点に限れば、写真は絵画を超える。 すると写真登場以前にあったリアリズム信仰は次第に崩れていく。 ただ現在は、写実絵画への静かな回帰志向が見られる。 これは映画にもいえることで、CGや3Dという技術の導入が映画のリアリズム信仰を最大限に刺激しているのは事実だが、果たしてそれは映画の真実を伝え得るのか。 むしろ、映画はもともと「まがいもの」であり、作り物であったのであり、それはある意味では現実を越えられない。 リアリズム信仰はやがて崩れていくのか、あるいは更なる信仰の深まりが訪れるのか。

年を取ると、虚構に耐えられなくなることがある。 今まで読めていた小説が読めなくなる。 虚構から現実へ。 いくつもの苛烈な現実を見てきた人間には、ウソごとの小説など隔靴掻痒のぬるま湯的世界なのだろう。 しかし、虚構に耐えられないという事実は、年齢に関係なく、実は人間の老いそのものを象徴しているのではないだろうか。 自分以外の世界へと向かう推進力が失われていけば、閉じた空間に自らを押し込めてしまうことになる。 このことは映画にも言える。 それは観客だけの問題ではなく、制作側の姿勢にも現れている。 大家と言われる映画作家たちが、晩年に至って、回想的で自伝的な要素の強い作品を作ったり、後世へのメッセージとして制作を行ったりすることは多いものだ。 しかし、映画はもともと、ジャンルを問わずフィクションであって、そのことを忘れた時、映画そのものも死んでしまうことを忘れてはいけない。

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