第59回紹介作品
タイトル
黒澤明とシェイクスピア
紹介者
栗原好郎
作品の解説
先年亡くなった黒澤明は外国文学を翻案した作品をいくつか残している。黒澤は1957年に、『マクベス』を基に『蜘蛛巣城』を撮り、 1985年には『リア王』を下敷きに『乱』を作っている。『蜘蛛巣城』はポーランドのシェイクスピア学者ヤン・コットをしてシェイクスピア悲劇の映画化作品中、最もシェイクスピア的であると言わしめ、国際的にも高い評価を得た。 黒澤は二作品とも、裏切りと野望を繰り返していた日本の戦国時代を舞台に選んでいるが、それはまさに、シェイクスピアがジェイムズ一世の治世下で、『リア王』や『マクベス』を書いていた時期とほぼ重なる。 1603年に殺戮を繰り返したエリザベス一世が亡くなり、スコットランド国王ジェイムズ六世がジェイムズ一世としてイギリス王位に就いた時期であり、日本でも戦乱の下剋上の世から、徳川家康の手による安定した幕藩体制への移行期にあたる。
黒澤作品は共に能の様式を基礎に作られており、クロース・アップはほとんど使われていない。従来のクロース・アップを多用する黒澤流の映画術から、フル・ショットとロングでの撮影へとその方法的な変化を見せている。 黒澤が能と同じように、全身の動作で感情を表すように演出したため、激情場面でもカメラは人物に寄ることはなかった。『乱』の最後で、盲目の少年鶴丸が出てくるが、その扮装も動きも見事に能の様式になっている。 能は戦乱の時代に創造された演劇であり、生きて欲望を追求することの空しさを、死者の側から批判する内容を持っている。戦乱の世の無常を達観するのに適切な形式がそこにはあるわけで、権力欲の渦巻く映画の中にあって、 戦うことを一切放棄した鶴丸が、燃え落ちた古城の石垣の上にじっと佇むラストシーンは黒澤の面目躍如たるものがある。シェイクスピアの原作の台詞をほとんど使わずに、シェイクスピアの世界を再現するという不可能事に挑んだ黒澤だったが、 結果的に原作を映画化したものの中で最高の評価を受けているのは、原作と映画の関係を考える時にある示唆を与えてくれる。文化の違いを超えて、ある普遍的な要素を捕まえることで、原作の持つ精神を再現すること、 そしてそれを超えることの可能性を黒澤作品はわれわれに示しているのではないか。
黒澤における外国文学の影響を考える際には、シェイクスピアの他に大きな柱としてロシア文学がある。ドストエフスキーの同名の小説を映画化した『白痴』、 トルストイの『イワン・イリッチの死』から着想を得た『生きる』、ゴーリキーの同名の戯曲の忠実な映画化である『どん底』、さらにウラジーミル・アルセーニエフの『シベリアの密林を行く』、 『デルスウ・ウザーラ』を基にした『デルス・ウザーラ』などがある。